訓練指導官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 09:00 UTC 版)
同年11月、岩佐直治、秋枝三郎が第一期講習員として発令され、千代田乗組みとなる。翌月には加藤も千代田乗組みを命じられた。甲標的乗員の訓練は千代田艦長の原田覚が責任者であったが、加藤は訓練指導官として講習員の直接指導を行った。第一期訓練は1941年(昭和16年)3月に実施され、加藤は4月から呉海軍工廠附を兼任し、また同月に松尾敬宇、酒巻和男、伴勝久ら士官、下士官計22名が第二期講習員に発令された。 甲標的乗員に対する訓練は呉海軍工廠における座学、潜水学校における机上襲撃演習、基礎訓練、母船からの発進訓練、碇泊艦襲撃訓練と難度を高めていった。初期の洋上訓練は、殉職者が生まれても不思議ではない困難な様相であった。しかし8月には航行艦襲撃訓練に移り、18日には実際の魚雷発射は行っていないものの成功を収めた。9月には応用訓練に入り、夜間における港湾進入、脱出にも成功している。乗員たちは研究会を開いて研鑽を積んでいたが、日米戦争が現実のものとなった場合、甲標的が投入されるべき艦隊決戦が生起するのかが問題となった。岩佐は加藤に港湾進入攻撃について相談し、そのうえで原田に対し意見具申を行った。原田は甲標的の洋上襲撃に疑問を抱いており、岩佐の計画案を具体化し、また有泉龍之助の賛同を得る。こうして甲標的による真珠湾攻撃計画が連合艦隊司令部に上申された。ただしこの経緯については疑問点も指摘されている。11月15日、特別攻撃隊として真珠湾攻撃に参戦することとなった10名の乗員は千代田を退艦。12月8日の攻撃で酒巻和男は捕虜となり、他の9名は戦死して九軍神とされた。加藤は出撃に際し、甲標的の搭載、発進試験などの指導を行っている。
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