第一〇一戦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 16:16 UTC 版)
「香椎 (練習巡洋艦)」の記事における「第一〇一戦隊」の解説
同時期、護衛任務に従事する関係者から、固有の司令部と艦艇を持つ専門の護衛戦隊設置を求める声が高まり、建制の護衛戦隊を編成することになった。11月15日、香椎と海防艦(対馬、大東、鵜来、23号、27号、51号)により、第101戦隊(司令官渋谷紫郎少将)が編成される。香椎は第101戦隊旗艦となった。大井篤(当時、海上護衛総隊参謀)は著書『海上護衛戦』において「(旗艦香椎は)戦闘力も防御力も貧弱であった。しかし、航海するのに燃料消費が少ないのがこの艦の取り柄であった」と記述している。第102戦隊(巡洋艦〈鹿島〉、海防艦6隻)と第103戦隊(秋月型駆逐艦〈春月〉、海防艦6隻)も順次編成された。 11月17日、ヒ80船団(巡洋艦〈香椎〉、海防艦〈新井崎、三宅、満珠、能美、鵜来、17号、23号、51号〉、船舶7隻)を護衛してシンガポールを出撃する。12月4日、ヒ80船団部隊は長崎に着いた。 12月10日、従来の第一海上護衛隊は第一護衛艦隊に昇格した(司令長官岸福治中将)。編成当初は第101戦隊、第五護衛船団司令部、第七護衛船団司令部、第八護衛船団司令部、第九三一海軍航空隊、空母海鷹以下付属艦艇多数という戦力だった。 12月19日、第101戦隊(香椎、対馬、鵜来、大東、海防艦ほか)はヒ85船団とモタ38船団を護衛して門司を出発する。12月25日に高雄に着き、そこで多数のタンカーが船団に加わったが、フィリピンに向かう船団(陸軍輸送船〈神州丸、吉備津丸、日向丸、青葉山丸〉及び護衛艦艇)と別れた。ヒ85船団部隊は12月27日に高雄を出発し、1945年(昭和20年)1月4日に仏印のサン・ジャック(現:ブンタウ)に到着した。 詳細は「グラティテュード作戦」を参照 第101戦隊(旗艦〈香椎〉、海防艦〈鵜来、大東、27号、23号、51号〉)は、サン・ジャックからヒ86船団を護衛し内地に戻ることになった。ヒ86船団部隊は1月9日正午にサン・ジャックを出発したが、このとき多数の空母を含むアメリカ軍第38任務部隊が南シナ海に侵入していた。ウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督が率いる米機動部隊は前年末にウルシー環礁を出撃して台湾方面に出動しており、ルソン島方面の作戦を支援しつつ南シナ海に進出する。カムラン湾付近に潜伏中と推定した日本艦隊(航空戦艦〈日向、伊勢〉や第二水雷戦隊)を攻撃することで、リンガエン湾からミンドロ島間の補給路を安全にしようとした。だが日本艦隊はシンガポール近海のリンガ泊地へ退避していたので発見できず、仏印周辺で行動していた香椎と輸送船団を攻撃する。 詳細は「ヒ86船団」を参照 第101戦隊司令官渋谷少将(旗艦香椎)は米機動部隊接近の情報を得ていたが、遅延はかえって事態を悪化させると判断し1月9日のサン・ジャック出撃を決断した。ヒ86船団部隊は1月11日未明にベトナムのバンフォン湾に仮泊、同日21時にキノン湾に仮泊する。1月12日、キノン湾を発ち北上したが、その日にヒ86船団部隊は第38任務部隊による空襲を受け壊滅し、香椎も沈没した。戦闘経過は以下のとおり。 1月12日午前9時頃、ヒ86船団部隊はアメリカ軍機少数機による空襲を受けたが撃退した。午前11時以降の空襲で永萬丸が沈没する。渋谷司令官は「万一ノ場合機密書類ヲ確実ニ処理スル如ク準備シオケ」を発令する。12時以降、ヒ86船団部隊は数次にわたる空襲を受けた。輸送船団の先頭を航行していた香椎(旗艦)は、第38.3任務群(空母エセックス、タイコンデロガ、ラングレー、サン・ジャシント基幹)による空襲で午後1時45分にまず爆弾2発が命中し、続いてさらに爆弾3発と魚雷2本が命中して午後2時5分に総員退艦となり、艦後部から沈没した。海防艦が救助に向かうも、松村艦長や渋谷少将も含む621名が戦死した。香椎以外に海防艦23号と51号も沈没、加入船舶も全滅(7隻は座礁放棄)、生存艦は3隻(鵜来、大東、27号)に過ぎずなかった。この被害は、アメリカ軍が南シナ海の制海権・制空権を掌握したことを意味していた。また空母機の攻撃に対して、護衛船団は対抗手段がないことを改めて証明した。 1945年(昭和20年)3月20日、練習巡洋艦香椎、軽巡木曾は軍艦籍より除籍された。
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