浙贛作戦
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| 浙贛作戦 | |
|---|---|
| 戦争:日中戦争(太平洋戦争) | |
| 年月日:1942年(昭和17年)4月 - 1942年8月 | |
| 場所:浙江省、江西省など | |
| 結果:日本軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 枢軸国側 | 連合国側 |
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浙贛作戦(せっかんさくせん)は、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)4月から9月まで中華民国の浙江省、江西省などで行われた日本軍の作戦。「浙」は浙江省、「贛」は江西省を指す。
背景
1942年(昭和17年)4月18日、アメリカ海軍航空母艦ホーネットより飛び立ったジミー・ドーリットル陸軍中佐を指揮官とするB-25双発爆撃機ミッチェル16機によって日本本土への空襲が行われた(ドーリットル空襲)。空襲後、16機のうち1機はソ連のウラジオストクに向かったが、その他は全て中国に向かった[1][2][3]。これにより、大本営は空母より発艦した米軍の爆撃機の着陸地となる中国の飛行場を占領又は破壊しようと考えた[4][5][6]。
参加兵力
経過
1942年(昭和17年)4月初旬、もとより第13軍は寧国、広徳方面への進攻作戦(十九号作戦)を計画しており25日から実行に移す予定だった。ところが、18日にドーリットル空襲が発生。21日に大本営より「浙江州ノ飛行場群爆砕作戦ハ極メテ急ヲ要スルモノ」という電報を受け、予定されていた作戦を中止して浙江方面の航空基地覆滅作戦(浙江作戦、「せ」号作戦)の実施要請が下る[7][8]。第13軍は5月15日から作戦を実施、第11軍は5月末から策応作戦を開始することになった[9]。
大本営は支那派遣軍の航空戦力を増強することを4月20日に決定[10]し、4月26日には第23軍と第一飛行団に「せ」号航空作戦命令を下達した[11]。第一飛行団は29日から衢州、玉山、麗水、吉安、建昌などの飛行場を攻撃した[12]。第一飛行団はこのあとも攻撃を継続し、金華、蘭渓、衢州、麗水の攻略に協力した[13]。
同時期、海軍においても「せ」号作戦が命ぜられ、第一遣支艦隊が浙江省沿岸部にて陽動や水路啓開を行い輸送などに協力した[14]。
5月15日、第13軍は杭州と寧波の間に部隊を展開、浙贛線沿線を西進し始めた。作戦は急速に進捗し、6月14日までに蘭渓、金華、衢州、玉山、広豊、広信を占領した[15][16]。5月31日には第11軍が南昌方面より策応作戦を開始し、6月16日までに撫州、建昌、鷹潭、貴渓を占領した[17][18]。
このころより作戦規模が拡大する[19]。また麗水作戦、浙贛線打通作戦、温州作戦が企図され、第13軍は6月24日までに麗水を攻略し、続けて7月1日には横峯を占領して第11軍との連絡に成功し浙贛線打通を完了、そのまま温州攻略に移ると12日には温州を占領した[20][21]。
5月より義勇飛行隊などが中心だった在中国アメリカ航空戦力が増強されアメリカ陸軍航空部隊となり桂林方面への進出が見られ始める[22]。これに対応するための作戦が第二次「せ」号航空作戦であり、8月7日まで続けられた[23]。
7月28日、大本営は浙贛作戦反転を下令。内容は金華を確保しつつ、第13軍は8月中旬ごろに反転せよというものだった。8月19日に撤収を開始し、撤収完了は9月末になった[24]。
結果
作戦は一応成功したが、これによって支那派遣軍による重慶侵攻作戦(四川作戦)は大幅に遅れた。9月に準備命令が出たころには南方戦線に航空兵力をまわさなければならなくなってしまい、結局12月には重慶侵攻作戦は中止されてしまった[25][26][27][28]。
日本軍は浙贛作戦においても三光作戦と同様の行為を行ったとされ[29]、キリスト教の布教活動をしていた宣教師による証言が複数ある[30]。
また、731部隊による細菌攻撃が行われた[31][32][33]。日本軍に1万人以上の戦病者が発生、そのうち1700人以上の死者が出たとされる。
1949年のクレア・リー・シェンノートの回顧録では、3ヶ月の作戦期間で中国側に25万人もの軍人および民間人の死者が出たと振り返っている[34]。[信頼性要検証][要ページ番号]
この数字は戦後のアメリカおよび中国で特に喧伝された。[信頼性要検証]
脚注
出典
- ^ 江口2020, p. 241.
- ^ 大本営陸軍部4, pp. 8–19.
- ^ 陸軍航空の軍備と運用3, p. 8.
- ^ 服部1956, pp. 92–94.
- ^ 大本営陸軍部4, pp. 19–21.
- ^ 陸軍航空の軍備と運用3, p. 9.
- ^ 大本営陸軍部4, pp. 19–23.
- ^ 昭和十七、八年の支那派遣軍, pp. 110–113.
- ^ 大本営陸軍部4, pp. 25–27.
- ^ 中国方面陸軍航空作戦, p. 283.
- ^ 中国方面陸軍航空作戦, p. 284.
- ^ 中国方面陸軍航空作戦, pp. 286–287.
- ^ 中国方面陸軍航空作戦, pp. 291–297.
- ^ 中国方面海軍作戦2, pp. 362–366.
- ^ 大本営陸軍部4, pp. 180, 186.
- ^ 昭和十七、八年の支那派遣軍, pp. 189–195.
- ^ 大本営陸軍部4, pp. 182, 264–265.
- ^ 中国方面陸軍航空作戦, p. 294.
- ^ 昭和十七、八年の支那派遣軍, pp. 118–119, 197–198.
- ^ 大本営陸軍部4, pp. 264–266.
- ^ 昭和十七、八年の支那派遣軍, pp. 209–218.
- ^ 中国方面陸軍航空作戦, pp. 297–299.
- ^ 中国方面陸軍航空作戦, pp. 305–310.
- ^ 大本営陸軍部4, pp. 474–476.
- ^ 渡辺2001, p. 78.
- ^ 大本営陸軍部4, p. 24 "大本営陸軍部として(中略)遂行すべき最大の作戦は、情勢これを許せば重慶屈服のための大侵攻作戦を敢行するにあったはずである。ドウリットル空襲に牽制されて、(中略)大戦略の遂行に暗い陰を投じたのである。"
- ^ 陸軍航空の軍備と運用3, pp. 76–81, 423–424.
- ^ 昭和十七、八年の支那派遣軍, p. 90.
- ^ 江口2020, p. 267.
- ^ Scott2015, Chapter22.
- ^ 江口2020, p. 271.
- ^ 日本の細菌戦, pp. 17–18.
- ^ Scott2015, p. 385.
- ^ Claire Lee Chennault (1949) (英語) (pdf). Way Of A Fighter. G. P. PUTNAM’S SONS. p. 169 2025年11月5日閲覧. "A quarter-million Chinese soldiers and civilians were killed in the three-month campaign. The Chinese paid a terrible price for the Doolittle raid, but they never complained."
参考文献
- 服部卓四郎『大東亜戦争全史 第3巻』鱒書房、1956年。doi:10.11501/3016236。
- 江口圭一『十五年戦争小史』(文庫版)筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2020年10月10日。ISBN 978-4-480-51006-8。
- 渡辺洋二『死闘の本土上空 B-29対日本空軍』文藝春秋、2001年7月。 ISBN 4-16-724910-3。
- James M. Scott (2015) (英語), TARGET TOKYO (ハードカバー ed.), W. W. Norton, ISBN 9780393089622
- 吉見義明; 伊香俊哉「日本軍の細菌戦」『戦争責任研究』第2巻、日本の戦争責任資料センター、8-29頁、1993年12月。doi:10.11501/4427961。 ISSN 1343-7348。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『大本営陸軍部 4 (昭和17年8月まで)』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1972年。doi:10.11501/9583057。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『昭和十七、八年の支那派遣軍』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1972年。doi:10.11501/13276447。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『中国方面陸軍航空作戦』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1974年。doi:10.11501/13276456。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『中国方面海軍作戦 2 (昭和十三年四月以降)』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1975年。doi:10.11501/13276568。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『陸軍航空の軍備と運用 3 (大東亜戦争終戦まで)』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1976年。doi:10.11501/12883262。
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