能勢潤三とは? わかりやすく解説

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能勢潤三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/14 04:23 UTC 版)

能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年明治26年)7月9日[1][2] - 1968年昭和43年)4月15日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

広島県出身[1][2][3]。青果卸商・能勢七郎の二男として生まれる[1]。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる[1][4]。1918年(大正7年)9月から1919年(大正8年)2月まで、陸軍戸山学校で甲種学生として学んだ[1]

1925年(大正14年)12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第46連隊中隊長に就任[1]。1927年(昭和2年)1月、歩兵第24旅団副官に転じ、第12師団副官を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級し独立守備歩兵第2大隊付となる[1]。同副官、近衛歩兵第4連隊大隊長を経て、1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に進み同連隊付となる[1]。同年10月、陸軍予科士官学校教官に就任した[1]

1940年(昭和15年)9月、大本営付となり比島に潜入し情報収集を行った[1]。1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に昇進し大本営付となる[1][3]。同年6月、歩兵第85連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。浙贛作戦などに参戦した[2]。1945年(昭和20年)4月、支那派遣軍歩兵教育隊長に就任し、同年6月、陸軍少将に進級し終戦を迎えた[1][2][3]。1946年(昭和21年)3月に復員し、同年4月、予備役に編入された[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

親族

  • 長男 能勢忠典(陸軍中尉)[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、122頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』564-565頁。
  3. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』398頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』388、398頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」107頁。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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