アメリカ本土空襲
アメリカ本土空襲
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1942年(昭和17年)9月に伊25の搭載機が2回にわたってオレゴン州の森林に焼夷弾を投下し火災を発生させたとされる。これは、大戦中のみならず現在にいたるまで軍用機がアメリカ本土の攻撃に成功した唯一の事例と言われている。 ただしメキシコの内戦であるクリステロ戦争において1929年4月2日に革命軍に雇われたアイルランド系傭兵パトリック・マーフィーによってアリゾナ州ナコの市街地が爆撃されたことから、アメリカでは初めてのアメリカ本土空襲はナコ爆撃、オレゴン空襲は2番目となっている。ただし前述のナコ爆撃は革命軍の軍事行動の結果として行われているため、軍用機と区切っても唯一の事例とは言い難い。また日本軍による空襲はハワイ(真珠湾攻撃とK作戦)とアラスカにも行われている。 被害は大きくなく(降雨の影響で意図した山火事は発生せず、1回目の爆撃では「飛行機を目撃した」とする森林局職員にも焼けた樹木を落雷によるものと勘違いされ、2回目の攻撃に至っては当初は気付かれもしなかった)、後日のFBIの調査によって日本軍による空襲と判明するなど、空襲に先立って実施された潜水艦による砲撃のほうがアメリカ世論に与えた影響は大きかった。 搭乗員のひとりである藤田信雄は戦後の1962年、攻撃地の近傍にあるブルッキンズハーバーの商工会議所若手の発案により、ブルッキンズハーバーつつじ祭りのグランドマーシャルとして招待された。
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アメリカ本土空襲
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「ドーリットル空襲」の記事における「アメリカ本土空襲」の解説
開戦以来日本軍に対し各地で敗退続きだったアメリカ国内は、この空襲によって沸き立った。一方、日本軍も東京初空襲に対抗して、ただちにアメリカ本土に対する攻撃を活発化させた。6月20日、シアトル方面に展開していた日本海軍の潜水艦「伊26」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を砲撃した。翌6月21日、日本海軍の潜水艦「伊25」が、オレゴン州アストリアにあるフォート・スティーブンス陸軍基地を砲撃した。 その後、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、内地で整備中の第一潜水戦隊より潜水艦1隻をアメリカ大陸西岸に派遣し、米本土爆撃および通商破壊作戦を命じた。これはドーリットル空襲に対する報復の意味があった。先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官)は伊25に対し米本土爆撃を命じる。同艦は8月15日に横須賀を出撃、9月9日と同月29日に伊25艦載機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度に渡り空襲した(アメリカ本土空襲)。この空襲による日米両陣営の被害はなかったものの、「ドーリットル空襲」後も敗退を続けたアメリカ政府及び軍は、国民への精神的ダメージを配慮してこの日本海軍機による空襲の事実を公表しなかった。なおこの空襲は、現在に至るまでアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。伊25はアメリカの貨物船2隻とソ連潜水艦L16を撃沈し、10月24日に横須賀へ帰投した。
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