アメリカ本土上陸の恐怖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:50 UTC 版)
「真珠湾攻撃」の記事における「アメリカ本土上陸の恐怖」の解説
真珠湾攻撃以降の日本海軍による開戦当初の進撃と、連合軍の度重なる敗退を受けて、日本軍によるアメリカ本土空襲およびアメリカ本土への上陸計画の可能性が高いと考えられるようになった。ルーズベルト大統領は日本軍の上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討した。 実際に1942年に入り、日本海軍の潜水艦によるカリフォルニア州やカナダのバンクーバー島などへのアメリカ本土砲撃が複数回にわたり行われたうえ、西海岸沿岸において通商破壊戦が繰り広げられたほか、潜水艦の搭載機によるアメリカ本土空襲が二度に渡り行われた。 また戦争開始後数か月の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局にたびたび報告され、ロサンゼルスの戦いのような事件も起きた他、防空壕の整備や沿岸地区への陸軍部隊の配置が進んだほか、アメリカ西海岸やカナダ、メキシコなどでは日系人の強制収容措置が取られた。 ハワイにおいてはショートの命令により、ハワイ準州知事が真珠湾攻撃直後の12月7日午後からハワイ全土に戒厳令を敷いたが、これはアメリカ史上前例のない措置であった。超現実的な状況下でオアフ島内ではデマが飛び交った。もっとも多かったのは日系人の秘密工作員に関するデマで、秘密工作員が「水道に毒を入れた」とか「青いランプで海上に向けて信号を送っていた」とか事実無根のデマではあったが、これは日系人と他のハワイ住民の中で緊張感が高まっている証拠でもあった。真珠湾の情報収集に一役買った日本のハワイ総領事館は地元民の暴動を抑止するため、警察の厳重な警備下におかれたが、同時に警察による徹底的な家宅捜索も行われた。 日系人らは他の住民との対立が先鋭化する中で、カメラやラジオは没収され、日本語の語学学校は閉鎖され、日系人社会の新聞は検閲を受けた。しかし、1941年当時のハワイの人口46万人の内、3人に1人の15万人は日系人で、11万人の白人や6万5千人のハワイ人と比較しても圧倒的多数派であり、アメリカ本土のように全住民を強制収容することはハワイの機能停止を招く事にもなりかねないので、結局大規模な強制収容はなされなかった。後に日系人らは、アメリカに対する忠誠をしめすためアメリカ軍に志願し、第442連隊戦闘団などの日系人部隊が編成され、アメリカ軍兵士として卓越した働きを見せた。 日本軍の上陸と占領もより緊迫性を持って議論され、ワイキキビーチには日本軍の上陸に備えて鉄条網が張り巡らされ、海岸線には土嚢を高く積んだ急造の掩体壕がいくつも造られ、市民兵が銃を構えて警戒していたハワイが占領されたときに日本軍によってハワイ内に流通する大量のアメリカドル紙幣が押収され、国際上において軍需品の決済に使われることを避けるため、ハワイ内において使用される全てのアメリカドル紙幣にスタンプが押され、ハワイが日本軍の占領下に置かれた際にはすべてが無効となる措置が取られていた。
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