アメリカ合衆国恥辱の日
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「真珠湾攻撃」の記事における「アメリカ合衆国恥辱の日」の解説
この日、フランクリン・ルーズベルト大統領はホワイトハウスにて来賓30名と昼食会を行う予定であったが、疲労していたため、妻のエレノア・ルーズベルトを通じて断りを入れ、書斎でくつろいでいた。 真珠湾攻撃の第一報が届いたのが、ワシントン時間で1941年12月7日午後1時40分であった。海軍長官のフランク・ノックスより電話で「真珠湾に空襲、演習にあらず」と知らされたが、補佐官のハリー・ホプキンスがその情報の信憑性を疑っていたのに対して、ルーズベルトは「たぶん本当だ」「これはまさに日本人がやりそうな種類の予期せぬ出来事だ」と述べている。その後にホワイトハウスに外交政策の顧問と軍の首脳を集めて対策を協議したが、ルーズベルトの「損害はどのくらいか?」「日本軍は次になにをやりそうか?」と矢継ぎ早の質問に対し、軍首脳らは十分な回答をするだけの情報を持たなかった。 真珠湾の情報がある程度準備できそうな夜8時半に各省の長官を集めて再度会議を招集することを決めて一旦散会したが、ルーズベルトの周囲の人間はルーズベルトがほっとしていたと感じていた。妻のエレノアは「フランクリンは心配していたが、長い間そう見えていたよりは落ち着いて見えた。やっと賽が投げられたことを知ってほっとしたのであろう。」と感じている。 9時ごろに全員が到着すると会議が開始された。会議の最中に艦隊の損害状況の報告が何回も入ったが、ルーズベルトはその報告を電話で聞くたびに一同に聞こえるぐらい大きなうめき声をあげ、会議の出席者はルーズベルトの苦悶に強い印象を植え付けられた。 ルーズベルトはウッドロウ・ウィルソン政権で8年間も海軍次官補を務め、海軍に並々ならぬ愛情を抱いていた。自らもヨット操縦を本格的に学んだ経験を持つホワイトハウス1のヨットマンで、船舶模型の世界的なコレクターとして有名になるなど船と海を愛していた。そのルーズベルトが自分が手塩をかけて育ててきた海軍が油断につけこまれ、戦闘態勢もとれず満足に動くこともできずに係留されたまま爆弾を落とされた、という事実を受け入れるだけでもみじめな思いであったようで、ノックスに対し「たのむから、なぜ戦艦が列になって係留していたのかつきとめるんだ」と詰め寄ったのに対し、ノックスは「それが停泊のやり方なのです」と答えるのがやっとであった。その後会議に議会の重鎮らも合流したが、あまりのアメリカ軍のぶざまさに、その内の上院議員の1人が「我が軍の軍艦が真珠湾でアヒルのように捕まるということがなぜ起こったのです?やつらは我々がパンツを下ろしているところをどうやって捕まえたんです?我が軍の哨戒機はどこにいたんです?」と怒りの声を上げたが、ルーズベルトは「わからないんだよ、わたしにもね」と答えている。 会議の席でルーズベルトが明日の両院合同議会で行う予定の演説の草案について話し合われたが、ルーズベルトの案がそのまま採用された。ルーズベルトは会議が10時45分に終わり自宅に帰った後も、深夜1時まで草案に手を加えていた。そして翌12月8日12時29分にルーズベルトは議会と国民に向けて演説を行った。「アメリカ合衆国にとって恥辱の日」とのフレーズが印象強いこの演説は、ルーズベルトがコピーライターの力も借りずに完全に独力で書き上げた。聴取率によればアメリカ国民6,000万人が聴いたという、ラジオ史上もっとも聴かれた演説となった。 ウィキソースに汚名演説の日本語訳があります。 「フランクリン・ルーズベルトの演説 (1941年12月8日)」を参照 ルーズベルトの対日宣戦布告演説 連邦議会、1941年12月8日。(3.1 MB、ogg/Vorbis 形式) この演説は国民と議会に熱狂的に受け入れられた。劇作家でルーズベルトの側近でもあったロバート・シャーウッド(英語版)はこの演説を聞いて「ルーズベルトが全アメリカ国民をこれほど完璧に代表していたことは2度となかった。」と振り返っている。その後も、アメリカ国内で日本軍進攻に対する恐怖が蔓延するなか(#アメリカ本土上陸の恐怖)ルーズベルトは『炉辺談話』としてラジオで国民に語りかけた。 敵が、タイミングを完璧に調整し、見事な手際で遂行して、欺瞞の見事な偉業を成し遂げたことは認めていいでしょう。まったく卑劣な行為でしたが、ナチの流儀で行われる現代の戦争が不愉快なものであるという事実に立ち向かわねばなりません。私たちはこういう戦争を好みません。巻き込まれたかったわけではありませんが、現にこうして巻き込まれ、私たちは持てるもの全てを使って戦うのです。 ルーズベルトは日本軍の成功を否定しなかったが、国民の奮起を促し、団結を呼びかけた。この談話は国民の恐怖やヒステリーを和らげ、ルーズベルトは圧倒的に支持され続けた。 ルーズベルトと議会は、戦争準備と並行して日本軍に真珠湾攻撃を許した責任追及も開始した。攻撃翌日には早くもルーズベルト直々の命により真珠湾攻撃について全面的な調査を行う委員会が組織され、委員会の議長には最高裁判事オーウェン・ジョセフス・ロバーツが選ばれた。しかし、海軍長官のノックスが攻撃の数日後に被害状況を調査するためハワイを訪れた際に、キンメルを辛辣に問い質し、その後にマスコミの取材に対して「地上および海上部隊は警戒していなかった」と明言したことから、ワシントンのアメリカ上層部は責任追及を現地司令官に向ける方針であるのは明らかだった。 はやくも12月17日には、現地司令官であった海軍のキンメルと陸軍のショートは、調査委員会の調査結果が出るまでという条件で更迭された。その後もショートとキンメルは、マスコミ報道で不当にさらしものにされ、非難をワシントンから逸らすように仕組まれた調査に戦争が終わるまで延々とつきあわされることになった。委員会の最終結論は「キンメルとショートの2人は、ワシントンからの警告を無視し、十分な連絡を取らず、哨戒を最大限に活用せず、あらゆる可能性に備えず、攻撃撃退のために保有戦力を展開せず、さらに提供された情報の重要性を認識しなかった。」であった。これは2人に司令官としての資質がなかったと言ってるも同然であり、議長のロバーツはさらに2人に対して「職務怠慢」と断じたが、これは他の委員の反対により「判断ミス」に止められた。 この決定はその後も覆ることはなかったが、キンメルの息子エドワードが1984年に弁護士を引退すると、父親の名誉回復運動を開始し、ロナルド・レーガン政権下の1987年には海軍省に最高階級(大将)の回復の嘆願を行ったが、キンメルが日本の攻撃を予見できたとする歴史家ゴードン・ウィリアム・プランゲの研究結果を元に嘆願を却下している。その後もエドワードは諦めることなく名誉回復運動を継続、ショートの孫のウォルター・ショートも運動に参加し、1990年にはアナポリスの同窓生の評議員会が全員一致でキンメルの名誉回復を議決し、レーガンの後のジョージ・H・W・ブッシュ大統領に救済措置を講じるように促したが、黙殺された。その後、キンメルとショートを擁護する著作も次々と出版され、両者擁護の気運が盛り上がる中でビル・クリントン政権下の1995年4月、エドワードらの陳情を受け議会がアメリカ国防総省に再調査を依頼したが、7ヶ月の再調査後に国防総省は両司令官の死後の地位と信用の回復要請を却下した。その際に国防次官のエドウィン・ドーンは「司令官として、キンメルとショートの両名には責任があった」と簡明に説明をしている。その後もクリントンに対しては議会より継続して名誉回復の要請がなされたが、政権最後までその要請に従うことはなく、次のジョージ・W・ブッシュ政権時に次第に名誉回復の動きは収束していった。 キンメルの後任の太平洋艦隊司令官には、当時56歳の航海局長チェスター・ニミッツをルーズベルトが直々に指名した。ルーズベルトはノックスに「ニミッツに、とっとと真珠湾に行って戦争が終わるまでそこにいろ、と言え」と命じ、その後自らニミッツのオフィスに電話し、ニミッツに太平洋艦隊司令官への任命を直接伝えた。ニミッツは1941年前半にも太平洋艦隊司令長官への任命をルーズベルトから打診されていたが、50名の先任がおり、先任から恨みを買い職務を果たすことが困難であるという理由で辞退した経緯があった。しかし、戦争が始まった今となっては名簿の順番を気に掛ける者もいないと思われた。ニミッツは妻より「あなたはいつも太平洋艦隊を指揮したがっていたものね」と司令長官就任を祝福されたが、「艦隊は海の底なんだよ。これはきっと誰も知らないが、お前には話しておかなければならん」と返している。 ニミッツは1941年のクリスマスの日に真珠湾に着任した。キンメルとの引き継ぎを行い、真珠湾の被害状況を確認した、確かに日本軍の攻撃は凄まじく、アメリカ海軍は米西戦争と第一次世界大戦の3倍の死傷者を被り、約30万トンの艦船が戦闘不能になり、太平洋戦域の2/3の航空機が戦闘不能になっていたが、ニミッツは「もっと甚大な損害をもたらせてもおかしくなかった」と分析し(#アメリカ側の評価)、ニミッツの指揮下でアメリカ海軍は再建されていくこととなった。(#アメリカ軍の再建)
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