アメリカ合衆国憲法の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「アメリカ合衆国憲法の成立」の解説
「フィラデルフィア憲法制定会議」、「アメリカ合衆国憲法」、および「権利章典 (アメリカ)」も参照 独立宣言を発布してヴァージニア憲法をはじめ各邦の憲法が制定され、パリ条約によって国際的に独立の承認を得たものの、合衆国自体はまだ国家ではなく正確には国家の連合体であったので特に憲法をもつことなく、独立13邦全体にかかわる法令としてはジョン・ディキンソンらによって1777年に起草された連合規約(大陸会議での批准を経て1781年に発効)しかなかった。しかし、この連合議会体制のもとでアメリカ社会は紙幣の濫発によるインフレーションが起こって各邦は財政難に陥り、1786年8月から1787年1月にかけてマサチューセッツでシェイズの反乱が勃発するなど、政治的・経済的な安定性を欠いていた。ここに、列強間にあって独立を保持して財政・通貨・信用上の混乱を収束し、国内的にも政治的・経済的安定を確保するため、「より完全な連邦」の形成が必要との見方が強まった。その中心となって活動したのがヴァージニア邦のジェームズ・マディソンであり、彼は連邦憲法を制定して13邦を1つの国家にまとめる連邦政府を構想した。マディソンの提案で開かれた1786年9月のアナポリス会議(英語版)ではニューヨーク、ニュージャージー、デラウェア、ペンシルヴェニア、ヴァージニアの5邦の代表しか集まらず、会議も3日しか続かなかったうえ、ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、ノースカロライナ4邦代表は間に合わず、ペンシルヴェニアは出席を見送った。ニューヨーク邦の代表アレクサンダー・ハミルトンはここで翌年に全邦代表が集まって連合規約改正に関して話し合うことを提案し、規約改正のみを討議する条件で了承された。このような情勢のなか、上述のシェイズの反乱は諸邦に大きな衝撃をもたらし、連合の強化や中央政府樹立が改めて強い関心を呼んだほか、実際に民兵隊をマサチューセッツに派遣した邦もあった。 憲法の批准 日付邦投票賛成反対1 1787年12月7日 デラウェア邦 30 0 2 1787年12月12日 ペンシルヴェニア邦 46 23 3 1787年12月18日 ニュージャージー邦 38 0 4 1788年1月2日 ジョージア邦 26 0 5 1788年1月9日 コネチカット邦 128 40 6 1788年2月6日 マサチューセッツ邦 187 168 7 1788年4月28日 メリーランド邦 63 11 8 1788年5月23日 サウスカロライナ邦 149 73 9 1788年6月21日 ニューハンプシャー邦 57 47 10 1788年6月25日 ヴァージニア邦 89 79 11 1788年7月26日 ニューヨーク邦 30 27 12 1789年11月21日 ノースカロライナ邦 194 77 13 1790年5月29日 ロードアイランド邦 34 32 1787年5月、フィラデルフィア会議が開かれた。マディソンは、主権を有する州間の連合をどのような形態にするのが最善か、共和国が広大な領土においていかにして可能かを考究するため、フランス駐在のジェファーソンに連合にかかわる古今の著作を送ってくれるよう依頼し、開催目前の1787年4月には「政治制度の欠陥」と題する覚書を作成した。また、マディソンはジョージ・ワシントンの出席を不可欠と考えて彼に丁寧に働きかけて承諾を得るなどの周到な準備をおこなったほか、会議にはペンシルヴェニア代表としてベンジャミン・フランクリンも参加した。アメリカ独立の功労者2人が参加し、議長にワシントンが選出されたことによって会議は順調に進行した。当初、連合規約改正のみを話し合うための会議であったが、マディソンはもとより合衆国憲法の制定を目指していた。合衆国憲法はジョン・ロック、モンテスキュー、ルソーの思想が参考とされ、憲法制定権力者として人民主権を前提とし、政府は人民より一定の権限を信託されたものであるとみなして共和主義・民主主義の原理が立てられたうえ、権力の集中は人民の自由にとって危険であるから機能的には三権分立、地理的には連邦制というかたちで分散を図るという構造となっている。同年9月17日、マディソンの起草による連邦憲法案が採択された。1788年6月に9州の承認を得て発効し、1789年1月には最初のアメリカ合衆国大統領選挙がおこなわれてワシントンが初代大統領に就任し、ここにアメリカ合衆国が名実ともに国家として統一された。 合衆国憲法は、第6条3項に「いかなる宗教的条件も、合衆国の公的職務や任務に就任するために必要とされることはない」として公職就任者に「宗教上の審査」を課してはならない旨を規定し、宗教的帰属と市民的帰属を明瞭に分離した。ここでは神や特定宗教はまったく参照されておらず、それゆえ合衆国憲法が政教分離に基づく最初の憲法とされる。クエーカーなど宗教上の信条によって新国家への忠誠や憲法遵守の宣誓を拒む人々、あるいは宣誓そのものが宗教的性格をもつ行為であるとしてそれを忌避する理神論的ないし無神論的傾向の人々に対しては、宣誓の代わりに簡単な宣言をおこなうか「確約」するという、別の選択肢が用意された。すなわち、宣誓を維持しつつも信教の自由の尊重による免除が導入されたのであった。 合衆国憲法の批准に際しては、マディソンのみならずアレクサンダー・ハミルトンやジョン・ジェイら連邦主義者(フェデラリスト)が新聞紙上で賛成の論陣を張ったが、各州の自治を重視する「反フェデラリスト」たちは基本的自由や権利を保障した「権利の章典(ビル・オヴ・ライツ)」がともなっていないことを訴え、批准に反対していた。そこで、修正条項としてマディソンが中心となって権利の章典12条を作成し、1789年の第1回連邦議会で提案した。修正条項は上院・下院で採択されたうえ、批准のために各州にまわされ、そのうち10条が1791年12月に成立した(修正条項10条)。 修正条項第1条は、以下のとおりである。 合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない。 ここにおいて、「国教樹立の禁止」と「信教の自由な実践」が明示されている。また、初代大統領となったワシントンも、クエーカー、カトリック、ユダヤ教徒に対しても容認としての「寛容」ではなく権利としての「信教の自由」を語り、連邦権力の動向を心配していた人々を安心させた。宗教を非国教化する本条項は各州政府にも広がっていき、1833年のマサチューセッツ州を最後に全州で採用された。 アングリカン・チャーチ(かつてのイングランド国教会)は非国教化の道を歩んで衰退を余儀なくされたものの、以上のように成文憲法における分離が独立後の早い段階でおこなわれたことから正面衝突はせず、政教分離は独立宣言に由来する市民宗教と共存できた。すなわち、メイフラワー号の巡礼父祖たちによるアメリカの建国神話を祝う「感謝祭」によって市民宗教の表明がなされているわけである。感謝祭の創設は、アメリカ文化への宗教の浸透と自発的結社の形成における宗教の役割によって説明されている。
※この「アメリカ合衆国憲法の成立」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「アメリカ合衆国憲法の成立」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。
- アメリカ合衆国憲法の成立のページへのリンク