アメリカ合衆国政府との紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:14 UTC 版)
「ブリガム・ヤング」の記事における「アメリカ合衆国政府との紛争」の解説
ヤングの率いたモルモン開拓者がユタに到着した直ぐ後に、新しいモルモン教徒の植民地はメキシコ割譲によってアメリカ合衆国の領土に組み入れられた。ヤングはアメリカ合衆国議会にデザレット州を創るよう請願した。しかし、1850年妥協によって、ユタ準州が創設され、ヤングはその知事に任命された。ヤングは知事と教会大管長を兼務し、宗教面と経済面の事柄を指導した。ヤングは独立と自給自足を奨励した。ユタの中の都市や町および隣接する州の都市や町がヤングの指示で設立された。ヤングの指導スタイルは独裁制であると見なされてきた。 ユタでは連邦政府の役人(最も顕著な例が判事)の行動が広範囲にかつ体系的に妨害されているという報告を連邦政府が受け取ったとき、ジェームズ・ブキャナン大統領は非モルモン教徒の知事を据えることにした。ブキャナンは取り立てて調査を行うことなく判事達の報告書を受け入れ、新しい宗派の制約を受けない知事は新しい準州内の砦守備に派遣された軍隊に伴われて行った。この軍隊は「血塗られたカンザス-ミズーリ戦争」が公然たる戦争ではなく、孤立し散発的なできごとだったので、それに干渉することなくそこを通過した。ヤングは連邦軍がヤングの後継者と共にユタに向かっているという報せを受けたとき、連邦軍を待ち伏せさせるために民兵隊を招集した。現在はユタ戦争と呼ばれるデザレット防衛の中で、ヤングは連邦軍の牛を取り上げ、物資荷車を焼くことで、冬の間連邦軍を動けなくした。モルモン教徒軍は数の上で1,000対1と劣勢だったにも拘わらず、連邦軍を出し抜いたモルモン教徒の有名な指揮官ロット・スミスの貢献が大きかった。ヤングはソルトレイクシティに火を放って追随者達をメキシコまで連れて行く計画を立てたが、最後のところで思い止まり、知事を止めることに同意した。後にブキャナンから恩赦を受けた。ヤングと次の知事およびアメリカ合衆国大統領との関係は複雑なものだった。
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