ユタ準州
ユタ準州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 15:42 UTC 版)
「ユタ準州」も参照 1850年、ユタ準州は1850年妥協の結果として創設され、フィルモアがその州都に指定された。1856年、ソルトレイクシティがフィルモアに代わって準州都になった。 モルモン教徒住人と合衆国政府の間の紛争は末日聖徒イエス・キリスト教会の一夫多妻制が連邦政府に知られた後に増長された。モルモン教徒の一夫多妻制は1854年に公にされることになり、モルモン教徒がこの地域に入ってからほぼ50年間も州昇格を否定された大きな理由だった。 その一夫多妻制の報せが広がったあとで、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は直ぐに非アメリカ人であり反逆者と見られた。1857年、偽の反乱と言う報せが広まった後で、連邦政府は軍隊を「ユタ遠征」に派遣して反乱と思われるものを鎮め、準州知事のブリガム・ヤングをアルフレッド・カミングに挿げ替えようとした。その結果の紛争がユタ戦争と呼ばれている。 軍隊がユタ北部のソルトレイクに接近すると、気が立ったモルモン民兵団とこれに随行した数名のパイユート族インディアンがユタ南部でアーカンソー州からの移民を襲い120人を殺した。この攻撃はマウンテン・ミードウズ虐殺と呼ばれるようになった。虐殺遺体は2年間にわたり虐殺現場に放置され、インディアンによる犯行を偽装された。この虐殺事件に関連し教団指導者は19の罪状で連邦政府より告発され法廷闘争は27年に及び、ただ一人虐殺の実行部隊の長ジョン・D・リーが殺人で有罪を宣告され、虐殺の場所で処刑された。 アルバート・ジョンストンが率いる軍隊が準州に入る前に、ブリガム・ヤングはソルトレイクシティの全住民に南のユタ渓谷に逃れるよう命令し、ノーブー・リージョンと呼ばれる軍隊を派遣して連邦軍の前進を遅らせようとした。荷馬車や物資は焼かれたが、最終的に軍隊が到着し、ヤングはカミングに公的支配を引き渡した。ただし、その後の評論家の多くはヤングが準州内で実権を持ち続けたと主張している。大統領に指名された知事は次々とその職を辞し、しばしば彼等の想像する準州政府の反応の無さを口に出していた。ヤングとの同意に基づいて、ジョンストンはソルトレイクシティの南西40マイル (64 km)離れた地にフロイド砦を建設した。 ソルトレイクシティは、1861年10月に完成した第一大陸横断電信線の最後の結節点となった。ブリガム・ヤングが最初にメッセージを送った者の一人であり、相手方はエイブラハム・リンカーンなどの役人だった。 南北戦争のために連邦軍はユタ準州から引き上げ、1862年にカリフォルニア志願兵連隊と共にパトリック・E・コナーが到着するまで準州は末日聖徒イエス・キリスト教会が支配した。コナーはソルトレイクシティの東丁度3マイル (5 km)にダグラス砦を建設し、その兵士達には鉱脈の発見を奨励して非モルモン教徒が地域に入って来るようにした。鉱物はトゥーエル郡で発見され、工夫たちが大挙して準州内に入って来るようになった。 1865年に始まるユタのブラックホーク戦争は準州の歴史でも最も激しい紛争に発展した。アントンガ・ブラックホーク酋長は1870年に死んだが、戦いは起こり続け、追加の連邦軍が送られて1872年のゴースト・ダンスを抑圧するまで続いた。この戦争は3者が関わる紛争としてインディアン戦争の中でも特異なものである。連邦政府に利用されたアントンガ・ブラックホークに率いられたティンパノゴス・ユト族とモルモン教当局との紛争だった。 1869年5月10日、最初の大陸横断鉄道がグレートソルト湖北のプロモントリー・サミットで完工した。この鉄道によって多くの人々を準州内にもたらすようになり、何人かの影響力ある実業家はここで財産を作った。 1870年代から1880年代、一夫多妻を罰する法律が成立し、1890年のマニフェストでモルモン教会は一夫多妻制を禁じることに最終的に合意した。ユタが再度州昇格を申請したときこれが認められた。ユタの州昇格条件の一つは一夫多妻制の禁止を州憲法に盛り込むことだった。これはその後に合衆国の州となった他の西部州でも要求される条件となった。州昇格は1896年1月4日に正式に承認された。
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