最初の大陸横断鉄道とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 最初の大陸横断鉄道の意味・解説 

最初の大陸横断鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/02 13:14 UTC 版)

プロモントリーサミットでの開通記念式典の模様。1869年5月10日

最初の大陸横断鉄道(さいしょのたいりくおうだんてつどう、First Transcontinental Railroad)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハカリフォルニア州オークランドを結んだ大陸横断鉄道である。1869年に開通し、西部開拓の促進に大きく貢献した。

概要

1859年、アメリカ合衆国では、東部の鉄道網がミズーリ川を越えてネブラスカ州オマハまで到達していた。西部開拓が進む中、この鉄道の西海岸までの延伸を求める声が高まり、ロビー活動が展開された。1862年、太平洋鉄道法英語版が制定され、連邦政府の財政支援のもとで大陸横断鉄道の建設が推進された。同法の制定はエイブラハム・リンカーン大統領の業績の一つでもある[1]。大陸横断鉄道の建設には、当時南北戦争など分離主義の動きが高まる中、広大なアメリカ合衆国の連邦としての統合を維持するという側面もあった。

開通時の公式ポスター

同法によって、国策会社としてユニオン・パシフィック鉄道セントラル・パシフィック鉄道とが設立され、ユニオン・パシフィック鉄道がオマハから西向きへ、セントラル・パシフィック鉄道がカリフォルニア州サクラメントから東向きへ、大平原と大山脈と幾多の峡谷を乗り越えて、鉄道建設を進めていった[1]。リンカーンの死から4年後の1869年5月10日、ユタ準州(当時)のプロモントリーサミットで開通記念式典が開催され、最初の大陸横断鉄道が完成した。1872年には日本の岩倉使節団も開通間もない大陸横断鉄道の乗客となっている[2]。その後、20世紀の始めまでに合計8ルートの大陸横断鉄道が作られた。

大陸横断鉄道はそれまでの遅く危険な駅馬車の時代を終わらせ、経済の大動脈として機能した。大陸横断鉄道の開通とホームステッド法の制定によって西部開拓が一層促進された。一方で、大平原におけるインディアンの生活の破壊にも結びつき、運営の邪魔になる野生動物バッファローの人為的絶滅駆除のきっかけにもなった。

しかし、鉄道のインパクトは限定的である。1846年、ニューヨーク=ワシントンD.C.間に電信が開通している。ポニー・エクスプレスよりもずっと早い時分に、情報だけは大陸を高速で往来していたのである。大陸横断鉄道は旅客と物流における革命であるが、情報革命とまでは言いがたい。ちなみに英国の電信敷設は1839年である。

構想と着工

初期の構想

大陸横断鉄道の構想は早くからあったが、最初に具体的な実地調査を行った人物はアサ・ホイットニーであった。1845年、ホイットニーは8人のチームを率いて予定している鉄道の経路沿いを調査し、沿線に存在する石材や木材などの建設資材の利用可能量、橋梁やトンネルの必要数、沿線の可耕地面積といったデータを推定した。さらに、ホイットニーは企業家や政治家の支援を求めて、地図やパンフレットを配布して回り、連邦議会へ大陸横断鉄道の建設計画を陳情した。しかし、折からの米墨戦争の勃発もあり、計画の実現には至らなかった。

着工まで

今日「大陸横断鉄道の父」と呼ばれているのはセオドア・ジュダ英語版である。ジュダは1852年に設立されたサクラメントバレー鉄道において主任技術者を務め、鉄道建設を監督していた。この過程で、ジュダはサクラメントからシエラネバダ山脈を越えて鉄道を建設できると確信し、自らこの仕事を推進したいと考えるようになった。程なくサクラメントバレー鉄道は倒産する。ジュダは1856年にワシントンD.C.へ行き、連邦議会へのロビー活動を経験した。提案書を書き、閣僚や議員その他の影響力のある人々へ配布した。

1859年9月、サンフランシスコで第1回の太平洋鉄道会議が開催され、ジュダはロビイストとして選任された。12月にワシントンDCへ戻り、キャピトル・ヒルのビルの一角にオフィスを構えた。太平洋鉄道会議を代表してジェームズ・ブキャナン大統領と面会し、連邦議会でも発言した。1860年2月、アイオワ州選出の下院議員サミュエル・カーチスによって最初の法案が提出されたが、このときは関連法案を成立させられず、ものにならなかった。

1860年、ジュダはカリフォルニアへ戻り、シエラネバダ山脈を鉄道で越える経路の調査にあたった。同じ頃、鉱山技師のダニエル・ストロングがシエラネバダ山脈を馬車で越える経路を発見していた。この経路は鉄道の経路としても適していた。ストロングはジュダへこの発見を示し、後に彼らは共同で商人や企業家からの出資を募るための組合を設立した。11月、サクラメントの富裕な商人コリス・ハンティントンは、ジュダの説明を聞いてその重要性をすぐさま理解し、4人の出資者を集めて理事会を設置した。理事会のメンバーは彼の事業仲間のマーク・ホプキンズ、宝石商のジェームズ・ベイリー、食料雑貨商のリーランド・スタンフォード、呉服商のチャールズ・クロッカーであった。

1861年1月から7月にかけて、ジュダとストロングら10人のチームはシエラネバダ山脈の横断経路を調査し、一方でリーランド・スタンフォードはワシントンでリンカーン大統領と面会した。連邦議会の特別会合が召集され、太平洋鉄道法案がカーチスによって再提出された。しかし、連邦議会は南北戦争の問題で手一杯であったため、法案は次の会期まで持ち越しとなった。10月、ジュダは下院の太平洋鉄道委員会の書記官に任命され、カリフォルニア州選出の新人下院議員のアーロン・サージェントと共に法案の通過に尽力した。

1862年、太平洋鉄道法案は5月6日に下院を、6月20日に上院を通過し、7月1日にリンカーン大統領が署名した。同法は東からユニオン・パシフィック鉄道、西からセントラル・パシフィック鉄道に大陸横断鉄道の敷設を求めるものであった。連邦政府による支援策としては、用地の使用許可に加えて、各社に平地においては鉄道の建設1マイルあたり 1万6,000ドル(1メートルあたり 9.94ドル)、丘陵地においては同 3万2,000ドル(同 19.88ドル)、山地においては同 4万8,000ドル(同 29.83ドル)が融資されることが定められた。

1863年1月8日、カリフォルニア州知事となっていたリーランド・スタンフォードの出席のもと、サクラメントで着工記念式典が開催された。どちらの会社がより長い線路を敷設できるか競争が始まった。

カリフォルニア州オークランドからネブラスカ州オマハまでの大陸横断鉄道の経路

経路

ユニオン・パシフィック鉄道の長さは 1,749 kmである。ネブラスカ州オマハを出発し、同州(エルクホーン、グランドアイランド、ノースプラット、オガララ)を横断し、コロラド準州(ジュールスバーグ)を通って再度ネブラスカ州(シドニー)に入り、ワイオミング準州シャイアンララミーグリーン・リバーエバンストン)、ユタ準州オグデンブリガムシティ、コリン)を通過して、同州のプロモントリーサミットでセントラル・パシフィック鉄道と接続する。

セントラル・パシフィック鉄道の長さは 1,110 kmである。カリフォルニア州サクラメントを出発し、同州(オーバーントラッキー)を抜け、ネバダ州リノ、ワズワース、ウィネマッカバトル・マウンテンエルコ、ウェルズ)を横断し、ユタ準州のプロモントリーサミットでユニオン・パシフィック鉄道と接続する。

サクラメントとオークランドの間 212 kmは、ウェスタン・パシフィック鉄道 (Western Pacific Railroad)が建設したが、同社は1870年にセントラル・パシフィック鉄道に吸収された。オークランド・サンフランシスコ間は鉄道連絡船で結ばれていたため、サンフランシスコ・フェリービルが西の起点となっていた。

建設

東からの建設

東からは、ユニオン・パシフィック鉄道がオマハを起点に鉄道建設を始めた。ユニオン・パシフィック鉄道の大口出資者となったトーマス・クラーク・デュラントは、南北戦争のときに北軍の将校のグレンビル・ドッジと組んで、南部の綿花を密輸することで財を成したような人物であった。デュラントは鉄道の経路の選定にあたって、自分の所有する土地や投資先の会社にとって都合の良い場所を通させた。さらに、デュラントは建設工事の入札を操作したり、連邦政府からの補助金を流用したりして不正な利益を上げた。また、デュラントはグレンビル・ドッジその人を主任技術者に任命した。

インディアン戦争

ユニオン・パシフィック鉄道の経路は大平原で、平地であったため建設は順調に進んだが、インディアンの領土にさしかかると問題が発生した。この地の平原インディアンたちは、この頃には彼らの土地を没収され、インディアン移住法に基づく強制移住によって保留地(Reservation)に追いやられていた。さらに、鉄道の路線はその保留地を横断する形となって、狩猟民族である彼らは狩り場をさんざんに荒らされることとなった。インディアンたちは「鉄の馬」の建設を白人による新たな侵略ととらえていた。また、平原のインディアンの生活の糧だったバッファローが「設備を壊すから」と手当たり次第に駆除された。数千単位で移動するバッファローの群れが通過するのに、数日かかることはざらだったのである。こうしてスー族をはじめとするインディアン部族はしばしば建設労働者を攻撃し、ユニオン・パシフィック鉄道は治安維持のために狙撃手を配置せねばならなかった。ショーショーニー族など、自らの保留地への鉄道敷設を歓迎した部族もあった。

西からの建設

西からは、セントラル・パシフィック鉄道がサクラメントを起点に鉄道建設を始めた。サクラメント・バレーでの工事は順調に進んだが、シエラネバダ山脈にさしかかると難航した。セントラル・パシフィック鉄道は中国苦力を中心とする移民を建設労働者として大量に雇い入れ、移民たちは冬のシエラネバダ山脈に降る雪にも耐えて工事を進めた。

山脈を貫くトンネルの建設のために、セントラル・パシフィック鉄道は当時発明されたばかりで安全性の低かったニトログリセリン爆発物を使用した。これにより建設のスピードは上昇したが、事故による労働者の死亡率も上昇した。被害の大きさに、セントラル・パシフィック鉄道ではより安全な工法を開発せざるを得なかった。ある日、セントラル・パシフィック鉄道の労働者たちは1日に 16 km(10マイル)を敷設するという記録を打ち立てた。これを記念する記念碑が現在でも線路脇に建っている。

開通の時が近づくと、双方の会社とも、連邦政府からより多くの補助金を受け取るために、自社の建設する線路をできるだけ長くしようと争った。見かねた連邦政府は、両社の線路の接続する場所と日時を決めた。両社から調査団が派遣され、互いの会社の建設状況を監視した。

雪の中で働く中国人建設労働者
リーランド・スタンフォードらを乗せて開通記念式典へ向かう「ジュピター」号

建設労働者

ユニオン・パシフィック鉄道の建設労働者は、アイルランド人移民、南北戦争の退役軍人、モルモン教徒などであった。セントラル・パシフィック鉄道の建設労働者は中国人移民が多かった。当時、中国人移民はカリフォルニアの金鉱山やクリーニング業、コックなどに従事していた。当初、中国人は体力が弱いため肉体労働に従事させられないという偏見があったが、これが偏見であるとわかるとカリフォルニア中から中国人移民がかき集められた。建設労働者の標準的な日当は3ドルであったが、中国人移民の日当はずっと安く抑えられた。後に彼らはストライキを起こし、若干の昇給を得た。全体のうち、直接に線路の敷設に従事した労働者はおよそ25%で、他に鍛冶、大工、石工、測量技術者、御者、電信技手、コックなど多様な職種が必要とされた。

開通

着工から6年後、ユニオン・パシフィック鉄道は 1,749 km(1,087マイル)、セントラル・パシフィック鉄道は 1,110 km(690マイル)の線路を敷設し、線路はついにユタ準州のプロモントリーサミット英語版で接続された。1869年5月10日、開通記念式典が開催され、リーランド・スタンフォードが開通を象徴する黄金の犬釘ゴールデン・スパイク)をハンマーで打ち込んだ。

このイベントは世界で初めてマスメディアによって報道されたイベントであると言われる。ハンマーと犬釘とが電信線で結ばれており、遠くの電信局でもハンマーの一叩きを電気信号として聞くことができた(ただし、実際のハンマー打ちはうまくいかなかったので、代わりに電信手が信号を送った)。この日、ニューヨークでは祝砲が発射され、フィラデルフィアでは自由の鐘が打ち鳴らされて、アメリカ中が狂喜した。

大陸横断鉄道の開通によって、東海岸と西海岸との間の移動は、それまで陸上であれば数ヶ月、パナマ経由の船(当時はまだパナマ運河も無かったため、パナマ地峡を陸路で横断し、船を乗り換えていた。パナマ地峡鉄道については後述)でも数週間を要していたものが、1週間に短縮された。1876年6月4日に運行された大陸横断超特急は、ニューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで83時間39分という記録を作った。

アメリカ政府はこの鉄道を使って官製ツアーを募り、「窓からバッファローが撃ち放題」と宣伝した。こうして列車で押し寄せる白人は、面白半分に窓からバッファローを射殺し、インディアンたちをさらに怒らせた。さらにこのバッファロー撃ちには「インディアン掃討」の意味も加わり、彼らの食料を奪うべく、組織的なバッファローの虐殺のために鉄道が援用された。

現在の状況

開通当時の線路や枕木はとうに新しいものに交換され改良されているが、鉄道の運行経路はほぼ当時作られた経路のままである。ユタ州など、当時の経路に迂回路が設けられた地点では、当時の線路の土手がいまだに明確に残されている。開通記念式典が行われたプロモントリーサミットは、1904年にグレートソルト湖を横断するルーシン短絡線が開通するとメインルートから外れ、湖の横断橋が不通になった際の予備として残されたが、1942年に戦争の影響で鉄材を供出するため、線路が完全に撤去された。その後しばらく放置されていたが、1965年に国立公園のビジターセンターが設置された。

開通記念式典でリーランド・スタンフォードが打ち込んだ黄金の犬釘は、式典終了後に通常の鉄の犬釘と交換され、現在はスタンフォード大学の博物館に展示されている。

東海岸と西海岸とを結ぶ交通の主役が大陸横断鉄道から航空機に移り変わって久しいが、現在でも、シカゴとサンフランシスコベイエリアのエマリービルとの間をアムトラックカリフォルニア・ゼファー号が毎日運行している。貨物輸送においては、パナマ運河を通過できない超大型船が1980年代以降に増えたこともあり、コンテナを使った複合一貫輸送のために大陸横断鉄道が活用されている。東アジアからの工業製品は西海岸の港湾のコンテナターミナルに下ろされ、そこからコンテナを二段積みするダブルスタックカーなどの長大な貨物列車に積み替えられて中西部や東海岸などに送られている。

2015年には中華人民共和国の国営企業中国鉄路総公司はアメリカ初の高速鉄道を目指してカリフォルニア州とネバダ州を結ぶ新たな大陸横断鉄道の構想をエクスプレスウエスト社と推し進めるもアメリカ合衆国連邦政府によって中止に追い込まれた[3][4]

脚注

出典

  1. ^ a b Profile Showing the Grades upon the Different Routes Surveyed for the Union Pacific Rail Road Between the Missouri River and the Valley of the Platte River”. World Digital Library (1865年). 2013年7月16日閲覧。
  2. ^ Ceremony at "Wedding of the Rails," May 10, 1869 at Promontory Point, Utah”. World Digital Library (1869年5月10日). 2013年7月21日閲覧。
  3. ^ 米国でも失敗、中国「高速鉄道計画」…政治色強すぎ“中国版ガラパゴス”が足枷に”. 2018年6月20日閲覧。
  4. ^ "difficulties associated with timely performance and CRI's challenges in obtaining required authority to proceed with required development activities.."
    "a federal government requirement that high-speed trains must be manufactured in the United States to secure regulatory approvals."China will not build L.A.-to-Vegas rail line — U.S. company calls the deal off”. Los Angeles Times (2016年6月8日). 2018年6月20日閲覧。

関連項目

外部リンク


最初の大陸横断鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)

アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「最初の大陸横断鉄道」の解説

南北戦争が終わると、アメリカ経済成長時代迎えた戦争荒れ果てた南部にはレコンストラクション政策が採られ、復興事業進められた。この過程遅れていた南部工業化進んだヨーロッパからの移民続々到着しミシシッピ川より西へ入植進んだ南北戦争中の1862年ホームステッド法成立して入植し開墾進めた農民に対して無償国有地払い下げが行われることになり、これが開拓をさらに推進することになった鉄道はこの開拓進め交通手段として重要な役割果たした鉄道西部農村東部大都市を結び、農村生産され農作物大都市供給するとともに東部工業地帯生産され工業製品農村供給した1849年ゴールドラッシュ発生したカリフォルニアでは人口急増しており、サクラメント・バレー鉄道英語版)が建設された。この鉄道技師長を務めたセオドア・ジュッダ(英語版)は、「クレイジー・ジュッダ」のあだ名があるほどの人物で、東部において数々難工事成し遂げて鉄道の建設をしてきた実績があった。彼は、最終的に大陸横断鉄道建設する野望持ってカリフォルニア赴任してきたが、当初政府にまったく相手にされなかった。しかし南北戦争勃発すると、カリフォルニア州北部留めておくことは連邦政府にとって重要な課題となり、ジュッダの提案ワシントンでも大きく取り上げられるようになった政府ももともと大陸横断する鉄道予備的な調査行っており、北部中央部南部3つのルート検討していたが、既に集落いくつかできており土地平坦な南部ルートは、アメリカ連合国となった奴隷州を通過するため政治的に問題があった。北部ルート人口あまりに少なくかつ地形峻険であったため、最終的にネブラスカ準州オマハからカリフォルニアへ向かう中央ルート選択されることになった南北戦争中の1862年7月1日に、リンカーン大統領太平洋鉄道法(英語版)に署名した。この法律により、オマハから西へ向けて鉄道建設する会社としてユニオン・パシフィック鉄道設立された。この「ユニオン」は南北戦争において北部をあらわすUnionから来ている。これに対して南部のことはConfederacyと言ったカリフォルニア北部つなぎとめるために、北部全体としてプロジェクトとして進められたことから、ユニオン・パシフィック鉄道名づけられた。 一方カリフォルニアから東へ向けて鉄道建設する会社としては、太平洋鉄道以前カリフォルニア州州議会特許により1861年セントラル・パシフィック鉄道設立されていた。太平洋鉄道法では鉄道の建設支援するために、土地供与法と同様に土地供与が行われた。幅20マイル (32 km) の公有地鉄道会社払い下げられることになっており、また建設資金援助として、平地では1マイルあたり16,000ドル山地では1マイルあたり48,000ドル高原では1マイルあたり32,000ドル30年期限鉄道債を政府買い入れることになっていた。条件として、勾配22パーミル超えてはいけないこと、曲線半径は最低400フィート(約122 m)とすること、12年以内完成させることとされていた。 こうした法律制定過程で、カリフォルニアにおける有力な政治家商人などが建設計画関わるようになっていった。設立されセントラル・パシフィック鉄道には、もともと大陸横断鉄道計画作り政府働きかけ実現向けて動いてきたジュッダ以外に、ビッグ・フォー称される後にカリフォルニア州知事務めリーランド・スタンフォード商人のコリス・ハンチントン(英語版)、建設業者のチャールズ・クロッカー(英語版)、商人のマーク・ホプキンズ(英語版)の4人が重役として参画した。まじめに鉄道建設するつもりのジュッダと利権目当てビッグ・フォー対立し、後にジュッダは会社追い出されて、東部帰る途上黄熱病にかかり、ニューヨークにたどりついてから1863年11月2日亡くなったセントラル・パシフィック鉄道をひきついだサザン・パシフィック鉄道従業員醵金サクラメント駅前にジュッダの像が立てられたのは、それから60年後のことであった。しかしビッグ・フォーであっても反対に遭わず工事推進できたわけではなく鉄道できること不利益を被る駅馬車業者電信会社さらには東部から鉄道で安い商品入ってくると困る商人や、メキシコ肩入れしてアメリカ勢力が強まることを牽制したいフランスなど、様々な反対動きがあった。当初サクラメント・バレー鉄道買収して東へ延ばす計画であったが、サクラメント・バレー鉄道反対勢力支配するところとなってしまったため、サクラメントから別途敷きなおすことになった。後にセントラル・パシフィック鉄道敷設が進むことが確実になってから、サクラメント・バレー鉄道買収したセントラル・パシフィック鉄道1863年1月8日サクラメント起工された。社長スタンフォード副社長ハンチントン財務担当ホプキンズ就任し、ジュッダが去った後の主任技師任命されたのはサミュエル・モンタギュー英語版であった。この時代西部鉄道大して儲かる事業ではなく本当に儲かるのは鉄道建設事業そのものであるとされていた。そこで1マイルでも多く鉄道を敷くために、ユニオン・パシフィック鉄道競争になる形で東へ向けて猛然と鉄道の建設進めていった。その中で書類捏造して、本来は平地である場所も1マイルあたり48,000ドル鉄道債を発行できる山地であると偽って政府からの資金多く獲得することも行われた建設荒っぽいもので、周辺山から切り出してきた木材枕木加工して並べその上にレール固定するだけのものであった建設作業には中国人苦力多く使用された。シエラネバダ山脈越え経路難工事で、まだダイナマイト利用できなかったため発破による路線開削トンネル工事は特に困難なものであった。 これに対してユニオン・パシフィック鉄道設立参画したのは医師資格を持つ商人であったトーマス・デュラン(英語版であった社長に南北戦争将軍として名の通ったジョン・アダムズ・ディクス就任させ、デュラン自身実権握った副社長就任した技術者としてはピーター・デイ (Peter Dey) とグレンビル・ドッジ採用された。1863年12月2日ユニオン・パシフィック鉄道オマハから西へネブラスカ準州内の工事開始した。しかし南北戦争中の物価高騰もあり、工事遅々として進まなかった。こうした中、建設費ピンはねするためにクレディ・モビリエ(クレジット・モービラー Crédit Mobilier)という会社設立された。この会社ユニオン・パシフィック鉄道から鉄道の建設工事請け負い実際にかかった経費のほぼ倍の金額水増しして請求して差額役員山分けするという構造になっていた。このクレディ・モビリエには議会の有力議員であったオークス・エームズ(英語版)とその弟のオリバー・エームズ(英語版)の2人出資し2人出身ボストン周辺出資募ったことから次第資金が集まるようになった。さらに南北戦争終結資金集まり寄与し、ようやく鉄道の建設工事順調に進められるようになった一方デイはこの建設費中抜き不正に納得せず、辞任した有力者2人工作により、こちらでもやはり山地認定基準歪められて、販売する鉄道債の額が引き上げられた。 沿線はまだ先住民多く住んでおり、白人横暴に怒って襲撃してくることがあり、南北戦争英雄であったウィリアム・シャーマン将軍が軍を率いて鎮圧にでなければならなかった。しかし数が多かったため難渋し鉄道の建設血を見ながら進められることになったこうした工事最中デュランエームズ兄弟対立するようになり、エームズ兄弟工作デュランはクレディ・モビリエの役員の座を1867年5月追われることになった。しかしユニオン・パシフィック鉄道役員からも追い出す工作失敗終わった建設工事には、南北戦争からの復員軍人ジャガイモ飢饉アイルランドから来た移民多く当たった一方この頃ユタ準州には多く末日聖徒イエス・キリスト教会LDS教会モルモン教)の信徒移民してくるようになっており、ユニオン・パシフィック鉄道はこれに目をつけて、その指導者ブリガム・ヤング交渉して信徒移民必要な鉄道運賃割り引く代わりに鉄道建設工事LDS教会引き受け契約を結ぶことになった1868年5月21日結ばれた契約では、約5か月という短期間で約150マイル(約240 km)の鉄道建設することになっており、この費用2125000ドルとなっていた。1マイルあたり14,000ドル工事費それまでのクレディ・モビリエの工事から考えれば格安で、酷使され信徒からもそれを見た周辺からも非難相次いだ。しかし移民のための経費財政火の車となっていた教会および信徒は、現金収入となるこの鉄道工事やむをえないものと捉えこの後ユタ準州内の工事開始したセントラル・パシフィック鉄道とも同様の工事請負契約結んだ。 こうして東西から建設進められてきた大陸横断鉄道は、建設伴って得られる鉄道債の発行収入や、沿線供与され土地などの利権から、1マイルでも長く自社建設すべく激し競争となった。そのためにならず者雇って相手側の工事現場暴力ふるって妨害するなど、死者が出る騒動となったこのため議会双方工事進捗状況調査して合流点ユタ準州プロモントリー(英語版)と定めた工事完成1869年5月10日となり、ユニオン・パシフィック鉄道119号機関車セントラル・パシフィック鉄道ジュピター号機関車接続点で向き合わせて月桂樹作られ特別な枕木金と銀犬釘打ち込むゴールデン・スパイク式典が行われた。この瞬間電信で"done"という信号アメリカ全土送られ、それを祝って各地教会の鐘打ち鳴らされた。これによって「初めアメリカ1つ国家になった」と形容され、アメリカ史でももっとも重要な日であると考えられている。セントラル・パシフィック鉄道建設した距離は742マイル (1,187.2 km)、ユニオン・パシフィック鉄道建設した距離は1,038マイル (1,660.8 km) であった。後に、ユニオン・パシフィック鉄道一部線路セントラル・パシフィック鉄道売却して両社線路接続点はオグデン移動した。 しかしこの時点太平洋から大西洋までの鉄道本当につながったわけではなかった。ユニオン・パシフィック鉄道起点であるオマハミズーリ川西側にあり、対岸アイオワ州カウンシルブラフスとの間の鉄道橋開通するまではさらに時間かかった鉄道橋1871年完成したが、乗換業務は金の落ち仕事であったため、その業務相手側に取られることを嫌がってどちらの鉄道会社渡って相手会社乗り入れることを拒否した結局、2社を連絡する鉄道別途設立してカウンシルブラフスオマハで2回乗換乗客に強いるという馬鹿馬鹿しい状態で、ようやく鉄道つながったゴールデン・スパイク式典に、まだ存命であったセオドア・ジュッダの妻アン・ジュッダが呼ばれることはなかった。しかし後にスタンフォード画家式典様子を描かせた際には、線路上に集まった群衆中に亡くなったジュッダの姿も描かせている。 こうして完成した大陸横断鉄道であったが、その経営内実は楽ではなかった。特に酷かったのはユニオン・パシフィック鉄道で、クレディ・モビリエが多額建設費中抜きしていたこともあり、政府負担した鉄道債の金額大きく上回る費用を必要としたため多額転換社債発行していた。この返済行き詰まりレール供給した関係で債権者となっていたアンドリュー・カーネギー寝台車売り込み同様に債権者となっていたジョージ・プルマンが、ペンシルバニア鉄道からトマス・アレクサンダー・スコット社長として送り込んで救済しようとした。しかし、生木を十分乾かさずに枕木にしたことから腐敗進行しており、ずさんな盛り土工事をした場所も流失しやすく、全線渡って工事やりなおし必要な状態であることが判明した。さらに1872年にはクレディ・モビリエの件に関して議員株式をばら撒いていたことが社会露見してしまい、オークス兄弟始め関係者多く失脚するアメリカ議会史上空前疑獄事件となってしまった(クレディ・モビリエ事件英語版))。このあおりでユニオン・パシフィック鉄道破綻し財務上の再編受けて再出発しなければならなかった。

※この「最初の大陸横断鉄道」の解説は、「アメリカ合衆国の鉄道史」の解説の一部です。
「最初の大陸横断鉄道」を含む「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事については、「アメリカ合衆国の鉄道史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「最初の大陸横断鉄道」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「最初の大陸横断鉄道」の関連用語

最初の大陸横断鉄道のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



最初の大陸横断鉄道のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの最初の大陸横断鉄道 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアメリカ合衆国の鉄道史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS