ユニオン・パシフィック鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 06:59 UTC 版)
ユニオン・パシフィック鉄道 Union Pacific Railroad |
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路線図(薄紫は使用権を持っている線路)
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報告記号 | UP |
路線範囲 | ![]() シカゴおよびミシシッピ川沿岸から太平洋沿岸までの都市 |
運行 | 1862年– |
軌間 | 1,435 mm(標準軌) |
本社 | ネブラスカ州オマハ ダグラス通り1400 |

ユニオン・パシフィック鉄道(ユニオン・パシフィックてつどう、Union Pacific Railroad, UP, NYSE:UNP)は、アメリカ合衆国最大規模の貨物鉄道会社。1862年設立。本社はネブラスカ州オマハ。2016年現在の社長、CEOはLance M.Fritz。
ユニオン・パシフィック鉄道の線路網は、アメリカ合衆国の西部から中部の多くをカバーし、シカゴ西部やニューオーリンズにまで達する。2007年現在、営業範囲は32,205マイル (51,829km) におよび、そのうち26,354マイル (42,413km) は自社所有である。この規模はアメリカ国内での展開する鉄道で最大である。これらの路線は、ミズーリ・パシフィック鉄道 (MP)、シカゴ・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 (C&NW)、ウェスタン・パシフィック鉄道 (WP)、ミズーリ・カンザス・テキサス鉄道 (MKT)、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道(DRGW。のちサザン・パシフィック鉄道)などの買収によって成し遂げられた。ほかにも、メキシコ合衆国におけるフェロメックス株を26%保有している(残る74%はグルポ・メヒコが保有)。
競合他社の筆頭としてBNSF鉄道があり、ほぼ同一の地域をカバーしている。ダウ輸送株20種平均の構成銘柄のうち、前身のDow Jones Average時代を含めて、算出開始以降、現在も選出されている唯一の企業である。
歴史
1862年の太平洋鉄道法を受けて、同年7月1日に法人化された。太平洋鉄道法は当時の大統領であったエイブラハム・リンカーンによって承認されたものである。太平洋鉄道法は南北戦争中の連邦の維持の目的で、ミズーリ川から太平洋までを鉄道でつなぐというものであった。
サンフランシスコ湾から東方へ構築されていたセントラル・パシフィック鉄道と接続するために、主要出資者であるトーマス・デュラントの指導のもとでアイオワ州カウンシルブラフスから西へ構築した。路線は内戦時にはアメリカ人労働者から技術を学んでいたアイルランド人労働者の手によって主に構築されていた。ついに2つの路線はユタ州オグデンの西53マイル(約85キロメートル)にあるプロモントリーサミットで1869年5月10日に繋がり、北アメリカ最初の大陸横断鉄道となった[1]。

その後、UPはモルモン教が敷設した3つの鉄道、即ちユタ・セントラル鉄道(ユタ州オグデンからソルトレイクシティへ南下する鉄道)、ユタ・サザン鉄道(ソルトレイクシティからユタ・バレーへ南下する鉄道)、ユタ・ノーザン鉄道(オグデンからアイダホ州に北上する鉄道)を吸収。さらに路線を建設、あるいはローカルな鉄道を吸収しつつ、東はコロラド州デンバー、西はオレゴン州ポートランドを経て太平洋岸北西部へと延伸した。さらに1880年、デンバーとカンザスシティを結ぶカンザス・パシフィック鉄道(KP。この区間の開業によりアメリカ大陸両岸を結ぶ鉄道が全通した)を買収した。
1872年、 クレジット・モビリエ社のスキャンダル (en:Credit Mobilier of America scandal) に巻き込まれ倒産。「ユニオン・パシフィック・レールウェイ」と会社名を改め、1880年1月24日、主要出資者としてジェイ・グールドを戴いて社を更生した。新会社は1893年に再度倒産するも、1897年7月1日に会社名を「ユニオン・パシフィック・レールロード」に戻して再発足している。こうした会社名のマイナーチェンジはアメリカ鉄道会社の倒産後の更生の結果としてはありふれたものだった。その間、UPは資産売却を進め、1870年、UPの中央支店はミズーリ・パシフック鉄道 (MP) のそれとなり、南部支店は新たに組織されたミズーリ・カンザス・テキサス鉄道 (MTK) に譲渡されている。
再生した会社はすぐに業績を回復し、1901年にはサザン・パシフィック鉄道 (SP) の経営権を獲得できるほどに体力があったが、1913年、合衆国最高裁判所により経営権を切り離された。最終的には1996年、活動上の思惑からSPを買収した。1980年代には、MPとMKTを再び吸収した。
1936年、UPはアイダホ州サンバレーにリゾートを建設。その夏にはオマハの技術部門が初めてのチェアリフトを設計した。
1948年から1970年代初期にかけて、世界でも類を見ない大規模な編成からなる電気式ガスタービン機関車 (GTELs) を運用した。GTELsは一時、鉄道輸送における10%以上を運んだが、70年代の燃料コストの増大によって使用は停止された。
保有車両
現有車両
2007年の年度報告書[2]によれば、UPが運用する車両数は下記のとおりである。車両によっては、UP所有だったものをリース会社に売却し、そこからリースを受けているものもある。
ディーゼル機関車 | ||||
---|---|---|---|---|
種別 | 自社所有 | リース車両 | 合計 | 平均経年 |
ロード・スイッチャー | 4,330 | 3,704 | 8,034 | 14.8 |
スイッチャー | 488 | 32 | 520 | 30.5 |
その他 | 112 | 55 | 167 | 20.6 |
合計 | 4,930 | 3,791 | 8,721 | |
貨車 | ||||
種別 | 自社所有 | リース車両 | 合計 | 平均経年 |
ホッパ車(有蓋) | 13,864 | 21,573 | 35,437 | 28.8 |
ホッパ車(無蓋) | 13,431 | 5,216 | 18,647 | 28.6 |
無蓋車 | 7,639 | 6,141 | 13,780 | 26.6 |
有蓋車 | 8,132 | 4,140 | 12,272 | 27.1 |
冷蔵車 | 3,309 | 5,291 | 8,600 | 22.3 |
長物車・大物車 | 3,687 | 1,149 | 4,836 | 30.2 |
その他 | 127 | 585 | 712 | |
合計 | 50,189 | 44,095 | 94,284 |
比較用に2014年度報告書に記載されている車両数も併記する[3]。数字は2013年度末のものである。
ディーゼル機関車 | ||||
---|---|---|---|---|
種別 | 自社所有 | リース車両 | 合計 | 平均経年 |
ロード・スイッチャー | 5,431 | 2,348 | 7,779 | 18.0 |
スイッチャー | 344 | 14 | 358 | 33.9 |
その他 | 72 | 57 | 129 | 34.1 |
合計 | 5,847 | 2,419 | 8,266 | |
貨車 | ||||
種別 | 自社所有 | リース車両 | 合計 | 平均経年 |
ホッパ車(有蓋) | 13,362 | 14,531 | 27,893 | 20.0 |
ホッパ車(無蓋) | 8,271 | 4,284 | 12,555 | 28.1 |
無蓋車 | 6,367 | 4,711 | 11,078 | 23.7 |
有蓋車 | 3,765 | 1,400 | 5,165 | 28.2 |
冷蔵車 | 2,651 | 4,192 | 6,843 | 24.9 |
長物車・大物車 | 2,690 | 1,181 | 3,871 | 28.9 |
その他 | 21 | 329 | 350 | |
合計 | 37,127 | 30,628 | 67,755 |
保存車両
- 4000形蒸気機関車(ビッグボーイ)
- 3985号蒸気機関車(チャレンジャー)
- 844号蒸気機関車 - 通称"FEF-3"[注釈 1]。蒸機全盛期より一貫して動態保存の状態にある同鉄道唯一の蒸気機関車。
- 6936号ディーゼル機関車 - 6600馬力の出力を誇る、全米史上最強の機関車であるDDA40X形の唯一の動態保存機。上記各保存機の補機などにも用いられる。
- 951、949、963B号ディーゼル機関車 - 鉄道黄金時代の優等列車を牽引したEMD E9形ディーゼル機関車の保存機。ビジネスカーや貸切臨時列車の牽引に用いられる。外観は概ね往年の雰囲気をとどめているが、機関はEMD GP38-2形ディーゼル機関車のものに換装されている。
過去の旅客列車
- シティ・オブ・ロサンゼルス(シカゴ~ロサンゼルス)
- チャレンジャー(シカゴ~ロサンゼルス)
- シティ・オブ・サンフランシスコ(シカゴ~オークランド・サンフランシスコ)
- シティ・オブ・ポートランド(シカゴ~ポートランド・シアトル)
- シティ・オブ・デンバー(シカゴ~デンバー)
- シティ・オブ・セントルイス(セントルイス~オークランド・サンフランシスコ、ロサンゼルス)
- シティ・オブ・ラスベガス(ロサンゼルス~ラスベガス)
- ポートランド・ローズ(ポートランド~カンサスシティ)
- オーヴァーランド・リミテッド(シカゴ~オークランド・サンフランシスコ)
- ロサンゼルス特急(シカゴ~ロサンゼルス)
- ビュート・スペシャル(ビュート~ソルト・レイク・シティ)
- スポーカン(ポートランド~スポーケン)
脚注
注釈
出典
- ^ “Ceremony at "Wedding of the Rails," May 10, 1869 at Promontory Point, Utah”. World Digital Library (1869年5月10日). 2013年7月21日閲覧。
- ^ http://www.up.com/investors/attachments/annuals/2007/annual_report.pdf
- ^ http://www.up.com/investors/attachments/secfiling/2014/upc10k_020714.pdf
関連項目
- トマス・アレクサンダー・スコット - 1871年から1872年までの社長
- ベイリー操車場 - ユニオン・パシフィック鉄道が運営する世界最大の操車場
- アラメダ・コリドー - BNSF鉄道と共同で使用するロサンゼルスの重要な貨物線
- アメリカ合衆国の鉄道
- アメリカ合衆国の鉄道史
- 大平原 (映画)
外部リンク
- 公式ウェブサイト(英語)
ユニオン・パシフィック鉄道(1936年-1964年)
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「サンバレー (アイダホ州)」の記事における「ユニオン・パシフィック鉄道(1936年-1964年)」の解説
アメリカ合衆国では初の冬のリゾート地は、ユニオン・パシフィック鉄道会長のW・アヴェレル・ハリマンが、主にアメリカ合衆国西部における鉄道利用客を増加させるために開発した。ニューヨーク州レイクプラシッドで1932年冬季オリンピックが成功し、ウィンタースポーツ(特にアルペンスキー)を楽しむ人が増えた。生涯スキーを楽しんだハリマンは、サンモリッツやダボスなどスイス・アルプスで楽しむことが出来るのと似たような山岳リゾートを、アメリカも持つべきだと判断した。1935年から1936年の冬に、オーストリアの伯爵フェリックス・シャフゴッシュの協力を得て、冬のリゾート地に最適な場所を求めて、アメリカ合衆国西部を旅させた。伯爵はレーニア山、フッド山、ヨセミテ国立公園、サンバーナディーノ山脈、ザイオン国立公園、ロッキーマウンテン国立公園、ワサッチ山脈、ポカテッロ、ジャクソンホール、グランドターヒーを旅した。その旅の終わりに、理想的な山岳リゾート地を探すという考えを捨てそうになっている時に、アイダホ州中央部のケッチャム地域に戻ってきた。ボイシで出会ったユニオン・パシフィック鉄道の従業員が、ケッチャムへの支線は他の支線よりも除雪に金が掛かると言っていたので、伯爵はそこの探検に向かった。 シャフゴッシュ伯爵はボールド山と周辺の山脈の組み合わせ、適切な降雪量、溢れる日照、中程度の標高、風の無さに感銘を受け、その場所を選定した。数週間後にハリマンも訪れて同意した。広さ3,888エーカー (15.73 km2) のブラス・ランチを1エーカーあたり4ドルで購入し、その春には建設工事が始まった。その建設には7か月を要し、150万ドルを掛けた。 フロリダ州のマイアミビーチを宣伝して成功していた広告業界のパイオニア、スティーブ・ハニガンが雇われ、そのリゾート地は「サンバレー」と名付けられた。シャフゴッシュ伯爵はオーストリアに戻り、第二次世界大戦の東部戦線で戦死した。この新しいリゾート地の中心になったのが、1936年12月にオープンしたサンバレー・ロッジだった。220室あり、「X」の形をしたロッジの外壁は、粗く仕上げた型枠に注がれたコンクリートで造られた。コンクリートの表面に木目の文様が残り、木の風合いを模倣する酸で着色した茶色になった。 スイススタイルのサンバレー・イン(正式には「チャレンジャー・イン」)と村が、1937年にオープンした当初のリゾートの一部になった。ハニガンは「スキーがあまりに寒いと人々が思わないように」このリゾート地に水泳プールを望んだ。ロッジもインも円形の屋外水泳プールを暖めていた。ハニガンは当時としてはユニークだったこのようなプールを設計させ、それが広く撮影されて只で広告されるように考え、それがうまく機能した。
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