ユニオン・パシフィック鉄道
ユニオン・パシフィック鉄道(1936年-1964年)
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「サンバレー (アイダホ州)」の記事における「ユニオン・パシフィック鉄道(1936年-1964年)」の解説
アメリカ合衆国では初の冬のリゾート地は、ユニオン・パシフィック鉄道会長のW・アヴェレル・ハリマンが、主にアメリカ合衆国西部における鉄道利用客を増加させるために開発した。ニューヨーク州レイクプラシッドで1932年冬季オリンピックが成功し、ウィンタースポーツ(特にアルペンスキー)を楽しむ人が増えた。生涯スキーを楽しんだハリマンは、サンモリッツやダボスなどスイス・アルプスで楽しむことが出来るのと似たような山岳リゾートを、アメリカも持つべきだと判断した。1935年から1936年の冬に、オーストリアの伯爵フェリックス・シャフゴッシュの協力を得て、冬のリゾート地に最適な場所を求めて、アメリカ合衆国西部を旅させた。伯爵はレーニア山、フッド山、ヨセミテ国立公園、サンバーナディーノ山脈、ザイオン国立公園、ロッキーマウンテン国立公園、ワサッチ山脈、ポカテッロ、ジャクソンホール、グランドターヒーを旅した。その旅の終わりに、理想的な山岳リゾート地を探すという考えを捨てそうになっている時に、アイダホ州中央部のケッチャム地域に戻ってきた。ボイシで出会ったユニオン・パシフィック鉄道の従業員が、ケッチャムへの支線は他の支線よりも除雪に金が掛かると言っていたので、伯爵はそこの探検に向かった。 シャフゴッシュ伯爵はボールド山と周辺の山脈の組み合わせ、適切な降雪量、溢れる日照、中程度の標高、風の無さに感銘を受け、その場所を選定した。数週間後にハリマンも訪れて同意した。広さ3,888エーカー (15.73 km2) のブラス・ランチを1エーカーあたり4ドルで購入し、その春には建設工事が始まった。その建設には7か月を要し、150万ドルを掛けた。 フロリダ州のマイアミビーチを宣伝して成功していた広告業界のパイオニア、スティーブ・ハニガンが雇われ、そのリゾート地は「サンバレー」と名付けられた。シャフゴッシュ伯爵はオーストリアに戻り、第二次世界大戦の東部戦線で戦死した。この新しいリゾート地の中心になったのが、1936年12月にオープンしたサンバレー・ロッジだった。220室あり、「X」の形をしたロッジの外壁は、粗く仕上げた型枠に注がれたコンクリートで造られた。コンクリートの表面に木目の文様が残り、木の風合いを模倣する酸で着色した茶色になった。 スイススタイルのサンバレー・イン(正式には「チャレンジャー・イン」)と村が、1937年にオープンした当初のリゾートの一部になった。ハニガンは「スキーがあまりに寒いと人々が思わないように」このリゾート地に水泳プールを望んだ。ロッジもインも円形の屋外水泳プールを暖めていた。ハニガンは当時としてはユニークだったこのようなプールを設計させ、それが広く撮影されて只で広告されるように考え、それがうまく機能した。
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