技術者として
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大学卒業後、三菱電機に入社する。主に技術畑を歩み、軍事分野や宇宙開発分野で豊富なキャリアを積んだ。特に、人工衛星の管理業務などに従事した。同社の鎌倉製作所にて管制システム部や飛しょう体部の部長を歴任し、副所長や所長を歴任した。
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技術者として
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プログラミング経験は全くなかったが、日電東芝情報システムではACOS上で動作するCADを担当する部署に技術者として配属されたため、FORTRANに取り組んだ。また、ACOSの案件がないときは、営業担当者と2人でパソコン用のCADの飛び込み営業をしていた。その後、UNIXやC言語に関心を持つようになり、1988年に富士ゼロックス情報システムに転職する。1991年、偶然再会した日電東芝情報システム時代の上司に勧められ、東芝システム開発(のちの東芝アイティー・ソリューション)に転職する。同社では、東芝のUNIXワークステーション事業を担当する部署に配属され、サン・マイクロシステムズなどのソフトウェアのサポートなどに従事した。このころ、NCSA MosaicやNetscape Navigator、Javaに興味を抱く。その後、東芝がネットスケープコミュニケーションズのソフトウェアをライセンス販売することになり、ネットスケープコミュニケーションズとの折衝を担当することになった。 1996年に日本ネットスケープ・コミュニケーションズからヘッドハントされ、同社に転職した。サポートエンジニアとして入社したものの、アメリカ合衆国のネットスケープコミュニケーションズ本社に常駐し、Netscape Navigatorの日本語ローカライズに携わった。しかし、ネットスケープコミュニケーションズの経営状況が思わしくなくなったことから、2001年に日本ネットスケープ・コミュニケーションズが閉鎖されることが決定した。これにより、Netscape Navigatorを導入した日本の企業ユーザに対するサポートは、アメリカ合衆国のAOL / Netscape本社と直接契約を結んだうえで、瀧田が行うことになった。日本ネットスケープ・コミュニケーションズの事業所もなくなったため、自宅を仕事場代わりにし、日本の企業ユーザーに対する最新バージョンの提供やアップグレードの提案を一人で行っていた。しかし、2003年には、同社がNetscape Navigatorなどクライアント事業から完全に撤退することになったため、それにともない瀧田の契約も終了した。 2004年に3名でMozilla Japanを発足させ、2006年に代表理事に就任した。また、慶應義塾大学を拠点とし、同大学大学院政策・メディア研究科などが参加する「先端ITスペシャリスト育成プログラム」では、講師を務めている。これらの業績に対して、2008年12月に日経BP『日経ウーマン』から「日経ウーマン・オブ・ザ・イヤー2009リーダー部門」が授与され、2009年10月に情報処理推進機構から「2009年度日本OSS貢献者賞」が授与されるなど、幾つかの賞を受賞している。
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技術者として
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東京大学卒業後、1980年4月より日立製作所に勤務した。同月より、日立製作所の日立研究所に配属された。1983年3月、日立製作所のシステム開発研究所に配属された。1989年8月、日立製作所の基礎研究所に配属された。1995年2月には、日立製作所の基礎研究所にて主任研究員に昇任した。1996年1月からは、日立製作所の基礎研究所にて、主任研究員と研究グループリーダを務めた。1999年4月からは、日立製作所の中央研究所にて、主任研究員と研究ユニットリーダを務めた。 日立製作所では、検索技術の開発に従事していた。連想が齎すようなコンテンツ同士の互いの関連性を、数値的に情報処理して検索・表示させたいと考え、連想検索用の検索エンジン「Generic Engine for Transposable Association」を開発した。のちに、日立製作所と平凡社が共同出資して設立した日立デジタル平凡社が、百科事典の電子化を手掛けた際には、この検索技術が「連想的文書検索システム『DualNAVI』」として実装されることになった。さらに、インターネット上で『世界大百科事典』が利用できる「ネットで百科」にも、この検索技術が「デュアル連想検索」として実装されることになった。2000年12月、日立製作所を退職した。 なお、1993年8月から1994年8月にかけて、オランダの国立数学・情報科学研究所にて客員研究員を兼任した。1999年10月から2000年3月にかけて、工業技術院の電子技術総合研究所にてCOE特別研究員を兼任した。また、2000年4月から2001年3月にかけて、早稲田大学のソフトウェア生産技術研究所にて客員研究員を兼任した。そのほか、1996年度から1997年度にかけて、東京電機大学の理工学部にて講師を非常勤で兼任し、数理学科の講義を担当した。1996年度から2000年度にかけて、東京大学の大学院の理学系研究科にて講師を非常勤で兼任し、情報科学専攻の講義を担当した。
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