再び橋梁技術者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/11 13:58 UTC 版)
「ワシントン・ローブリング」の記事における「再び橋梁技術者として」の解説
1865年半ばから1867年まで、父・ジョンとともにシンシナティ・コビントン橋(現ジョン・A・ローブリング橋の建設に携わった。橋とケーソンの調査のためにヨーロッパを視察中に一人息子のジョン・A・ローブリング二世が誕生した。1868年に帰国後、ワシントンはブルックリン橋のアシスタント・エンジニアとなり、1869年半ばに父・ジョンが工事中に負った傷が元で死去したあとはチーフ・エンジニアとなった。ワシントンは橋の設計にいくつか改良を加え、新たな橋の建設方法を編み出した。 その間、ワシントンは減圧症(ケーソン病、潜函病ともいう)に犯され、下半身麻痺という後遺症を負う。しかし、工事は継続され、1883年には竣工した。ワシントンに代わり、ワシントンの妻、エミリー・ウォーレン・ローブリングが連日、現場を訪れ、監督指揮し、またワシントンがチーフ・エンジニアの地位を守れるよう動いた。
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