再び柔道家に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 21:12 UTC 版)
1961年、再び柔道界に戻り、拓殖大学柔道部監督に就任。のちに全日本柔道選手権大会覇者となる岩釣兼生らを育て、1966年には全日本学生柔道優勝大会で拓殖大学を優勝に導いた。 1983年、拓殖大学柔道部監督を勇退する。 1985年出版の著書『わが柔道』の山下泰裕との対談では、物議を醸した1980年の山下と遠藤純男との試合は「明らかに君(山下)の負け」としたうえで、「強いんだから全日本選手権を10連覇しなさい」と述べる。 1993年4月18日、大腸がんのため75歳で死去。墓地は熊本市南区野田の大慈禅寺にある。
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