再び河南を領有
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:48 UTC 版)
張駿は新郷で閲兵を行い、北野において狩猟を行った。また、軻没虜を討ってこれを破った。 330年5月、前趙が滅亡すると、張駿は軍を派遣して再び河南の地を支配下に入れ、狄道まで至った所で武街・石門・候和・漒川・甘松に五屯護軍を置き、後趙との国境とした。6月、後趙が鴻臚孟毅を派遣し、張駿を征西大将軍・涼州牧に任じ、九錫を加えた。だが、張駿は後趙の臣となる事を恥として受け入れず、孟毅を抑留して返さなかった。 9月、秦州の休屠(匈奴の部族)である王羌が後趙に反旗を翻したが、河東王石生に破られ、涼州へ逃亡してきた。張駿は禍を恐れ、孟毅を後趙へ返還すると共に、長史馬詵を使者として入貢させ、後趙の臣を称した。
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