再び松山藩預かり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 07:35 UTC 版)
享保6年(1721年)、享保の改革の一環として、当地の代官支配が改められ、再び伊予松山藩(藩主松平定英)の預かり所となった。 延享4年(1747年)、立川銅山を請け負っていたのは大坂屋久左衛門は、経営難のため住友家に経営委譲交渉を始めた。住友と大坂屋は松山藩に願い出、幕府に願書を提出するに至ったが、これに対して西条藩領新居郡の数か村からは、住友の「一手稼ぎ」になると国領川の汚染が進み田畑に被害が出る恐れがあると、反対する陳情が寄せられた。住友の一手稼ぎによる効率化・産銅増加を望む幕府は、松山藩に西条藩とともに農民の説得に当たり円満解決をするよう指示を行っている。寛延2年(1749年)、別子銅山は立川銅山を併合した。
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