再び日本で活動
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1949年、『三人帰る』の撮影を終えた雪洲は、ちょうどアメリカを訪問していた大映社長の永田雅一に帰国を勧められ、10月に約13年ぶりに日本の土を踏んだ。雪洲は大映と出演契約を結び、伊藤大輔監督の『遥かなり母の国』(1950年)に出演した。日本映画の水準を高めることに意欲を燃やす永田は、雪洲主演で広島市への原子爆弾投下を題材にした日米合作映画『ヒロシマ』を企画していたが、自らの独立プロダクションで作ろうと考えていた雪洲と思惑がすれ違い、実現しなかった。続いて雪洲は、ヴィクトル・ユゴーの代表作を明治時代の日本を舞台に置き換えて映画化した『レ・ミゼラブル あゝ無情』(1950年)で、ジャン・バルジャンに相当する主人公を演じた。 日本に腰を落ち着けた雪洲は、映画以外の分野にも進出した。1952年には「めでたや食品株式会社」の副社長となり、徳川夢声や高峰三枝子などの芸能人を集めて「芸能人のそば屋」を立ち上げた。雪洲は銀座に「早川雪洲の店」、日本橋に「高峰三枝子の店」というように芸能人が1軒店を持つチェーン展開を考えていたが、これが実現することはなかった。1953年の文化の日には、吉川英治、丹羽文雄、久保田万太郎、和田英作、喜多村緑郎、志村喬などの文化人たちとの出資で、日本初の文化人の相互補助機関となる「文化信用組合」を設立し、雪洲が初代会長に就任したが、私生活の女性問題などによりわずか1年で辞めてしまい、組合自体も3年で業務停止となった。 その後も雪洲は日本で映画出演を続け、『悲劇の将軍 山下奉文』(1953年)や『日本敗れず』(1954年)といった戦争映画で本領を発揮した。前者では山下奉文を演じ、その風格ある演技が高く評価された。後者はアメリカ時代の雪洲の弟子だった阿部豊が監督した作品で、雪洲は阿南惟幾がモデルの陸軍軍人を演じ、その演技も高く評価された。雪洲はこれらの作品で、中年の威厳のある容貌を活かした悲劇の軍人役がはまり役となり、その後も貫禄のある役柄を演じることが増えた。1955年には東京ロケが行われたサミュエル・フラー監督のアメリカ映画『東京暗黒街・竹の家』の警部役で再び国際的な舞台に立ったが、この作品も不正確な日本の描写で批判され、雪洲は『チート』以来付きまとっていた国辱映画俳優の烙印を再び押された。
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