再び日本で活動とは? わかりやすく解説

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再び日本で活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:35 UTC 版)

早川雪洲」の記事における「再び日本で活動」の解説

1949年、『三人帰る』の撮影終えた洲は、ちょうどアメリカ訪問していた大映社長永田雅一帰国勧められ10月に約13年ぶりに日本土を踏んだ洲は大映出演契約を結び、伊藤大輔監督の『遥かなり母の国』(1950年)に出演した日本映画水準高めることに意欲を燃やす永田は、主演広島市への原子爆弾投下題材にした日米合作映画ヒロシマ』を企画していたが、自らの独立プロダクション作ろう考えていた洲と思惑すれ違い実現しなかった。続いて洲は、ヴィクトル・ユゴー代表作明治時代日本舞台置き換えて映画化したレ・ミゼラブル あゝ無情』(1950年)で、ジャン・バルジャン相当する主人公演じた日本に腰を落ち着けた洲は、映画以外の分野にも進出した1952年には「めでたや食品株会社」の副社長となり、徳川夢声高峰三枝子などの芸能人集めて芸能人そば屋」を立ち上げた洲は銀座に「早川雪洲の店」、日本橋に「高峰三枝子の店」というように芸能人が1軒店を持つチェーン展開考えていたが、これが実現することはなかった。1953年文化の日には、吉川英治丹羽文雄久保田万太郎和田英作喜多村緑郎志村喬などの文化人たちとの出資で、日本初文化人相互補助機関となる「文化信用組合」を設立し洲が初代会長就任したが、私生活の女性問題などによりわずか1年辞めてしまい、組合自体3年業務停止となったその後洲は日本映画出演続け、『悲劇将軍 山下奉文』(1953年)や『日本敗れず』(1954年)といった戦争映画本領発揮した前者では山下奉文演じ、その風格ある演技高く評価された。後者アメリカ時代洲の弟子だった阿部豊監督した作品で、洲は阿南惟幾モデル陸軍軍人演じ、その演技高く評価された。洲はこれらの作品で、中年威厳のある容貌活かした悲劇軍人役がはまり役となり、その後貫禄のある役柄演じることが増えた1955年には東京ロケが行われたサミュエル・フラー監督アメリカ映画東京暗黒街・竹の家』の警部役で再び国際的な舞台立ったが、この作品不正確な日本の描写批判され洲は『チート以来付きまとっていた国辱映画俳優烙印を再び押された。

※この「再び日本で活動」の解説は、「早川雪洲」の解説の一部です。
「再び日本で活動」を含む「早川雪洲」の記事については、「早川雪洲」の概要を参照ください。

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