最初の大統領職とクーデター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/08 04:03 UTC 版)
「ジャン=ベルトラン・アリスティド」の記事における「最初の大統領職とクーデター」の解説
暴力により妨害された1987年の国政選挙に続いた、1990年の選挙は慎重に準備された。アリスティドは大統領選挙への立候補を宣言し、その後6週間の選挙運動で彼の支持者の「Lavalas」(ハイチ系のクレオール語で洪水あるいは急流)は「小さい聖職者」に票の67%を与え12月16日大統領に選出した。同時に立候補していた米国の傀儡候補マルク・バザンの得票は14%だった。 アリスティドは1991年2月7日に就任し、米海兵隊の抑圧下での1987年のボイコット選挙で選ばれたレスリー・マニガに次ぐハイチで2人目の民選大統領となった。そしてマニガ同様1年に満たずに9月30日に軍のラウル・セドラによるクーデターで職を逐われた。ボートピープルの大量脱出がそれに続いた。米国沿岸警備隊は1991年 - 1992年の間にその前の10年間の救助者の合計よりも多い合計41,342人のハイチ人を救助した(95%は後に強制送還)。 アリスティドはその亡命生活をベネズエラと米国で過ごし、国際的な支持を取付けるために奔走した。国連など国際的な圧力の元で軍事政権は譲歩し、米軍を中心とした国際連合ハイチ・ミッションが全土に展開した。1994年10月15日アリスティドはハイチに戻り職務に復帰した。軍事政権はハイチの弱い経済に強い一撃を与えた。アリスティドは経済対策に任期の多くを費やした。アリスティドはまた米州学校出身の軍の将校を追放し、代わって警察部隊を創設した。1995年6月の国会選挙では多党連合であるラヴァラ政治機構OPL(Organisation Politique Lavalas)が圧勝した。 アリスティドの最初の任期は1996年2月に終わり、憲法上彼が連続した任期を務めることは認められていなかった。アリスティドは彼が次の選挙の前に追放で失った3年を務めるべきか、または彼の就任の日付から在任期間が厳密に数えられるべきか、に関して幾つかの論争があった。米国の圧力の元で今回は後者であるべきだと決められた。アリスティドの際立った協力者で1991年以来アリスティドの下で首相を務めたルネ・ガルシア・プレヴァルが1995年の大統領選挙で88%の得票で当選した。これはハイチ史上で初めての平和的で民主的な権力の移行だった。
※この「最初の大統領職とクーデター」の解説は、「ジャン=ベルトラン・アリスティド」の解説の一部です。
「最初の大統領職とクーデター」を含む「ジャン=ベルトラン・アリスティド」の記事については、「ジャン=ベルトラン・アリスティド」の概要を参照ください。
- 最初の大統領職とクーデターのページへのリンク