最初の夫「土田弥平次」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:14 UTC 版)
「生駒吉乃」の記事における「最初の夫「土田弥平次」について」の解説
吉乃の夫・土田弥平次は弘治2年(1556年)9月に没したと、『前野家文書』に記述がある。しかしながら別の箇所には「天文20年(1551年)の濃姫輿入れよりも早い時期(『武功夜話』)」や、「弘治2年(1556年)の濃姫輿入れ前の天文24年(1555年)正月頃(武功夜話拾遺記載)」などに吉乃は男子(信忠)を生んだと記述されており(信忠の誕生は実際には弘治3年(1557年))、政略結婚である濃姫の輿入れよりも信長の吉乃への寵愛が早く、男子出産も早かったとしたかったものと思われる。(濃姫の輿入れは実際には1549年) 吉乃が弘治2年(1556年)9月以降に、信長の側室になったとすると、信忠の誕生は考えうる限り最短で弘治3年(1557年)8月頃となり、さらに信雄を身籠るのが信忠出産から最短であったとしても、永禄元年(1558年)5月頃の誕生となる。これは、信雄の誕生が同年3月末と伝わっていることと矛盾が生じる。 生駒家の家譜は久菴(吉乃)の項に「初何某弥平次ニ嫁ス」と記し、土田という苗字は登場しない。同家譜は、久菴の妹らの夫の姓名(織田六郎三郎、森甚之丞)や娘徳姫の夫の姓名(岡崎三郎信康)を記し、久菴の母や兄生駒家長の妻の実家の姓も記しており、「何某弥平次」という記載は異例である。そこで、この人物は後に明智光秀の娘婿となった三宅弥平次(明智秀満)で、同家譜が憚ってその姓を伏せたのかもしれないという推測を、生駒家の子孫は述べている。
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