生駒家長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/05 01:22 UTC 版)
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 慶長12年1月7日(1607年2月3日) |
別名 | 昌利、八右衛門(通称)、玄球 |
戒名 | 源庵常本居士 |
墓所 | 愛知県江南市宝頂山墓地 |
主君 | 織田信清→信長→信雄→豊臣秀吉→徳川家康→松平忠吉 |
氏族 | 生駒氏 |
父母 | 父:生駒家宗 |
兄弟 | 家長、生駒吉乃 |
妻 | 神野民部少輔娘 |
子 | 善長、利豊、慈光院(蜂須賀家政室) |
特記 事項 |
織田信長の義兄 生駒親正の義従兄弟 |
生駒 家長(いこま いえなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。生駒家宗の子。生駒吉乃(織田信長側室)の兄。小折城主。
概要
初め犬山城主・織田信清の配下であった。その後、妹の吉乃(類)が織田信長に見初められ側室に迎えられ、縁戚関係を結んだため、父と共に信長の家臣となり馬廻りとして仕えた。浮野の戦い、桶狭間の戦いなどで軍功を挙げた。元亀元年(1570年)4月、信長の越前国攻めに従軍した際、突きかかってきた敵から信長を身を挺して守り、負傷したといわれる[1]。同年の姉川の戦いにも従軍。
本能寺の変後は、信長の次男織田信雄に仕え、1300貫文を領した[2]。小牧・長久手の戦いでは長島城代をつとめる。信雄が追放されると浪人し、豊臣秀吉に仕え天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐に従軍。秀吉死後、徳川家康の四男松平忠吉の尾張入府の案内を任された際、そのまま尾張国に留まって家臣となり、1954石を知行した[3]。

慶長12年(1607年)1月7日に死去。戒名は源庵常本居士。墓所は愛知県江南市の宝頂山墓地。
家督は三男の善長が継ぐ。その後四男の利豊が継ぎ、後の尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕え、子孫は尾張藩士として幕末まで続いた。三男の善長は利豊に家督を譲ったあと、妹・慈光院(ヒメ)の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老家、阿波生駒家として続いている。
脚注
登場作品
- テレビドラマ
固有名詞の分類
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