坪内家定とは? わかりやすく解説

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坪内家定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/14 16:13 UTC 版)

 
坪内家定
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄7年(1564年
死没 慶安元年10月24日1648年12月8日
別名 通称:源太郎、惣兵衛、玄蕃
墓所 松泉寺(東京都港区
幕府 江戸幕府鉄砲
主君 織田信長信雄豊臣秀吉徳川家康秀忠家光
氏族 藤原利仁富樫氏坪内氏
父母 父:坪内利定、母:生駒家宗の娘
兄弟 家定、定吉、正定、秀定、安定、行定、定令、浅井直元室
生駒家長の娘
定仍、定次前野自勝室、加藤縫殿介室、中根平左衛門室、松倉重次室、荒川吉政室、立木三郎兵衛室、滝氏室
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坪内 家定(つぼうち いえさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将豊臣秀吉に仕えた前野長康は伯父にあたる。

生涯

はじめ織田信長に仕える。天正10年(1582年甲州征伐では織田信忠軍に属し、高遠城攻めに功があった。信長没後は織田信雄に属し、天正12年(1584年小牧・長久手の戦いでは滝川雄利と共に松ヶ島城に籠もり、のち徳川家康に召されて生駒氏の守る小折砦への援軍を命じられ、忍者3人を討ち取った。天正18年(1590年奥州仕置では伯父長康と共に陸奥国へ派遣される。道中で加藤光泰配下の失態により蜂起した一揆に包囲されたが、これを返り討ちにしている。文禄元年(1592年文禄の役では長康や弟たちと密かに渡海し、釜山浦攻めで武功を挙げた。前後して徳川家康に仕え、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは父らと共に井伊直政麾下として活躍。戦後、父の家督を継ぎ鉄砲頭となった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にはいずれも一族とともに従軍。寛永3年(1626年徳川秀忠の上洛に随行。寛永11年(1634年水口城番となった。

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