宗教の役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/10/20 12:22 UTC 版)
マサチューセッツ湾植民地と同様、コネチカットは植民地における国教会としての会衆派教会を作ったピューリタンによって設立された。税金が地元の牧師達を支え、日曜の礼拝に出席できなかった植民地人は罰金を取られた。1708年まで、会衆派教会はコネチカットで唯一の合法宗教だった。しかし、その年に「分別有る異議」を認め、著名なところではイングランド国教会やバプテストのような特定の非国教徒については、彼等の教会に献金するという条件で、国教を支えるための税金を払わなくともよいものとした。また1708年には、セイブルック綱領を採択し、地元の信徒団から教会の主権を奪い、それを植民地全体に拡がる牧師によって運営される協議会の手に委ねた。 1701年、植民地議会は新しく会衆派の牧師を育てるという使命を持つ大学の設立を承認した。キリングワース、セイブルックおよびウェザーズフィールドと移った後で、1716年に恒久的な場所としてニューヘイブンに設立された。1718年、ボストンで生まれた富裕なイギリス人実業家イライヒュー・イェールからのかなりの額の寄付の後で、大学の名前はイェール大学と改められた。1720年代初期、大学の牧師ティモシー・カトラーが教官の1人や隣接する教区の牧師2人と共に、イングランド国教会に改宗したと告発され、イェール大学で宗教論争が起こった。1722年、大学の理事会は大学の正当性を強制すると決断し、カトラー牧師や問題のある教官を解任し、今後は全ての教区牧師や教官がセイブルック綱領への同意を宣言しなければならないという決議案を採択した。 18世紀中頃の大覚醒は植民地中に衝撃を与え、会衆派教会を分裂させた。覚醒を奉じる者はニューライツと呼ばれ、これに反対する者はオールドライツと呼ばれるようになった。ニューライツはそれまでの牧師によるしばしば情熱の無い礼拝に不満を抱き、多くの町で別の宗教団体あるいは教会を設立する請願をおこなった。オールドライツはこれらの試みに反対し、ニューライツは分別も無い(その礼拝では感情的な性格があるため)し、異議を唱えているのでもない(彼等は会衆派教会であり続けた)と主張した。覚醒を抑圧しようとしたオールドライツは植民地議会を説得して巡回法を成立させ、移動する牧師が町の牧師からの招待無くしてコネチカットの町で説教を行うことを禁じた。多くの歴史家達はこの法が植民地における政治問題に火を付けたと考えている。 アメリカ独立戦争の間、植民地イングランド国教会信徒の多くはフェアフィールド郡に集中しており、ロイヤリストであり続けた。ある国教会信徒ブリストルのモーゼス・ダンバーは反逆者として有罪宣告され、ロイヤリストであるために絞首刑になった。 会衆派教会は革命期間のコネチカットでも国教会であり続けたが、「分別有る異議」を持つ教会として、時と共に支配力を弱まった。1818年のコネチカット憲法の採択によって、会衆派教会は国教会ではなくなり、遂にコネチカットには政教分離が訪れた。
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