5分の3妥協
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/17 13:56 UTC 版)
5分の3妥協は1787年のフィラデルフィア憲法制定会議で取り決められたことだった。その条項では、下院議員定数(および大統領選挙の選挙人)の州割り当てと州に対する連邦税割り当てを決める際に根拠となる州人口に奴隷人口の5分の3を加える「連邦比率」を定めていた。ニューイングランドの人々の中には常にこの妥協に反対する者もいたが、大半はアメリカ合衆国憲法の成立のために必要な事として受け容れていた。しかし、1800年にジェファーソンが大統領に当選し、その後にルイジアナ買収を実行したことで、連邦党員は今後の国の拡大が南西の方向に進むことになり、さらに多くの奴隷州を生むようなことになると心配するようになった。 1804年、マサチューセッツ州とコネチカット州の議会は「連邦比率」の撤廃を要求したが、この年の大統領選挙でもジェファーソンはコネチカット州以外のニューイングランド州全てを制した。この問題が再燃したのは米英戦争が始まった1812年以降だった。連邦党員は、ジェファーソンとマディソンが選挙人を獲得する際に奴隷人口を考慮する連邦比率で有利になって当選したと論じ、さらに民主共和党の貿易政策は、当初からの農業と商業の利益のバランスが必要だという理解を壊すものだと主張した。 歴史家のショーン・ウィレンツは、連邦党の反戦論と奴隷制度に対する人道的反対を結びつけるのは、近年に普通のことになったと述べた。しかし、ウィレンツはこの問題を厳密にはニューイングランドで政治力を確保するための事情だと見ており、次のように記している。 農園主の不道徳性と偽善行為に対する大衆の攻撃は、ヤンキー連邦党員の宝とする道徳的美点に付け加えられたが、これらの攻撃は奴隷あるいは制度としての奴隷制度に関する関心をほとんど表さないことが多かった。連邦党員は反奴隷制度という信念からはジェファーソン派を憎まなかった。むしろ「ジャコバン党」(過激急進主義)のジェファーソン派を憎んだから反奴隷制度という立場を選ぶこともあった。
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