アンテベルム
アンテベラム (1781年-1860年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 03:15 UTC 版)
「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「アンテベラム (1781年-1860年)」の解説
アメリカ独立戦争による混乱が1781年のヨークタウンの戦いで事実上終わった後、南部はアメリカ合衆国の発展において主要な政治勢力になった。連合規約が批准されると南部は政治的に安定し、邦内の事情には連邦の干渉もほとんど無い状態になった。しかし、この安定には構想上の弱さがあり、連合規約では顕在的な発展性を担保できなかったために、1787年のフィラデルフィアにおける会議でアメリカ合衆国憲法を創ることが必要になった。ここで重要なことは、1861年の南部人がその脱退の動きや南北戦争をアメリカ独立戦争に比定し、独立戦争の軍事的かつ思想的「再現」と考えたことだった。 南部指導者は1787年の憲法制定会議でその派閥的利益を守ることができ、憲法に明白な反奴隷制的条項を入れ込むのを阻止した。さらには、「逃亡奴隷条項」や5分の3妥協を織り込むこともできた。それにも拘わらず、アメリカ合衆国議会は奴隷貿易を規制する権限を保持し、憲法の批准から20年後にあたる1808年1月には事実上奴隷の輸入を禁じた。北部と南部は強い合衆国から利益を得るために共通の地盤を見出すことができたが、憲法で得られた統一は深く根差した経済と政治の興味の違いを隠していた。憲法制定会議の後アメリカ流共和制の解釈には2つの流れが頭角を現した。 北部ではアレクサンダー・ハミルトンやジョン・アダムズを指導者とするピューリタン的共和主義が支配した。南部では、農本的共和主義が政治文化の基盤を形成した。両派共に合衆国を保持するためにそれぞれの「生活様式」を保とうとしたが、その保持のための手段が全く異なっていた。北部共和主義者は善良なる民を作ろうとし、それで民主主義の存続を確保しようとした。南部人はより良い条件を造ることに集中した。トーマス・ジェファーソンやジェームズ・マディソンによって指導される農本的共和主義の立場はジェファーソンの墓碑に記された碑文に表されている。この碑文にはバージニア大学の設立における「条件良化」の役割や、アメリカ独立宣言とバージニア信教の自由法を書いたことが記されているが、アメリカ合衆国大統領として連邦政府に貢献したことは記されていない。南部における政治思想の発展は小農の理想に焦点を当てた。すなわち土地と結びついた者は政府の安定と継続について既得の興味も持っているということである。
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