アンテベラムのサウスカロライナ
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「サウスカロライナ州の歴史」の記事における「アンテベラムのサウスカロライナ」の解説
1786年のコットン・ジンの発明のお陰で、内陸部と低地の経済はその富の格差が無くなった。低地は長繊維綿花を栽培できたが、内陸部の土壌では短繊維の綿花しか作れなかった。低地の綿花は手で容易に分離できたが、イーライ・ホイットニーによるコットン・ジンの発明で内陸部の短繊維綿花も容易に分離できるようになった。この発明で、農夫達はその綿花畑を拡張するためにさらに多くの労働者を必要とするようになった。内陸部の農園主は奴隷化されたアフリカ人の輸入量を増やした。19世紀の初めには、サウスカロライナの白人人口20万人に対し、アフリカ系アメリカ人15万人がおり、ほとんどが奴隷であった。 チャールストンにおける政治腐敗の危険を避けるために、州都はコロンビアに移された。米英戦争の前、州議会は北部の産業が商品を輸出することを妨げる法案を通し、国内の党派的対立となった。しかし、戦後はジョン・カルフーンが産業の強化の必要性を訴え、高い保護関税を提案した。カルフーンは後に全く逆の立場に変わった。 1828年、カルフーンは憲法を解釈して、各州の州政府はその州の中では連邦政府よりも強い権限があると決めた。その結果、もしある州が不必要と判断すれば、その領域内で連邦法を「無効化」できる権利があるとされた。1832年、サウスカロライナ州議会が連邦政府が決めた憎むべき関税を即座に「無効化」したとき、アンドリュー・ジャクソン大統領はこの行動をあからさまな反逆であると宣言し、法律を強制するためにアメリカ海軍の艦船をサウスカロライナに派遣させた。 カルフーンは副大統領を辞任し、サウスカロライナの上院議員になって仲間のカロライナ人を刺激している問題の解決を図り、合衆国からの脱退の動きを止めようとした。連邦軍がチャールストンに到着する前に、カルフーンと上院議員のヘンリー・クレイが妥協に達した。クレイは1833年の妥協関税、すなわち10年間は低い税率に抑えるという法案を合衆国下院で通した。 奴隷を所有する白人はアフリカ系アメリカ人奴隷に大きな投資を行い、かつ奴隷の数が白人を上回るようになったことを認識していたので、奴隷制度に関する心配が増えていった。1822年自由黒人職人で説教師のデンマーク・ビージーが1隊の奴隷と自由黒人を使ってチャールストンの白人支配を転覆させる計画を立てたという廉で有罪を宣告された。これに驚いた白人達は外出禁止令を布き、奴隷に読み書きを教えることを禁じ、アフリカ系アメリカ人による多人数の集会を禁止した。自由黒人が存在すること自体が奴隷社会に対する挑戦であるとみられたので、サウスカロライナ議会は奴隷所有者達に、それまでの慣例であった遺言や遺贈により解放を許すのではなく、解放を望む者それぞれついて州議会に請願することを要求した。白人社会は度々奴隷反乱の噂に怯えたが、奴隷が暮らしている条件を考えれば奴隷達による暴力の可能性は比較的少なかった。 1860年までに州の人口は703,620人となり、その57%、すなわち402,000人以上が奴隷であるアフリカ系アメリカ人に分類された。自由黒人の数は1万人を幾らか下回るものであった。自由黒人の大半はチャールストンに住み、熟練工、職人および労働者として暮らしを支え、独自の地域社会を持った。 サウスカロライナ州がその経済において過度に綿花に依存していたことは、3つの方向で南北戦争後の貧窮に繋がった。農園主は栽培によって広大な土地を疲弊させており、内陸の小農は綿花のために自給自足農業が減っており、さらに他の州の大きな利益が白人も黒人も有能な多くの人材の流出に繋がっていった。1820年から1860年の間に、20万人近い白人が主に深南部の州や辺境での機会を求めて州を離れた。彼らの多くは奴隷のアフリカ系アメリカ人を連れて行った。深南部プランテーションのために貿易業者に売られた奴隷もいた。州内の最も富裕な人々は土地を肥えさせておくことや製造業を奨励するために投資していなかった。
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