アンテミウス帝(467年 - 472年)
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「リキメル」の記事における「アンテミウス帝(467年 - 472年)」の解説
詳細は「アンテミウス」を参照 ヴァンダル族はこの皇帝の空位が西ローマ帝国に対する影響力を増す好機であるととらえた。ヴァンダル族の王ガイセリックはオリブリオスを西ローマ皇帝の候補に推した。オリブリオスとガイセリックの息子フネリックはともにウァレンティニアヌス3世の皇女を妻としており、ガイセリックとは縁戚関係にあった。オリブリオスが帝位に就けば、ガイセリックがリキメルに代わる帝国の実権者となりうる。東ローマ皇帝レオ1世に圧力をかけるべく、ヴァンダル族はイリュリクムやペロポネソス半島その他のギリシャ沿岸の東ローマ帝国の領域を襲撃した。 ヴァンダル族の襲撃の増加に直面したレオ1世は467年にイリュリクム軍区司令官のアンテミウスを西ローマ皇帝に指名した。レオ1世はアンテミウスにダルマチア軍区司令官のマルケリヌス将軍(先にリキメルに反逆した人物)をつけてイタリアに送り込み、西の帝位を確保させるとともにヴァンダル族から北アフリカを奪回することを望んだ。当初、リキメルはアンテミウスの指名は自らの権力を弱めるものになると見なした。リウィウス・セウェルス帝と異なり、アンテミウスは成功した軍歴を持ち、さらにはテオドシウス朝との血縁も有していた。しかしながら、東ローマ帝国からの援助を欲していたリキメルは彼を受け入れざるを得なかった。新帝との絆を強めるためにリキメルはアンテミウスの娘のアリピア(英語版)と結婚し、しばらくの間は両者の間に平穏が保たれた。 アンテミウスは即位するとすぐにリキメルの権力と釣り合いをとらせるためにマルケリヌスにパトリキ(貴族)の称号を与え、リキメルと並ぶ二人目のマギステル・ミリトゥムに任じた。468年、東ローマ皇帝レオ1世は北アフリカのヴァンダル族に対する大攻勢を組織させ、東西のローマ帝国が相当数の軍隊を集めた。レオ1世の義弟にあたるトラキア軍区司令官のバシリスクスが東西合同軍の最高司令官となり、マルケリヌスが西方からの攻撃の指揮官となった。バシリスクスとマルケリヌスそしてエジプト軍区督軍のヘラクリウス(英語版)による三方向からの攻撃が計画された。1,000隻の船団によって運ばれるバシリスクスの率いる主力部隊がカルタゴから離れた場所に上陸し、トリポリタニアから西進するヘラクリウスの軍隊と合流する手はずになっていた。マルケリヌスはシチリアとサルデーニャを確保した上でカルタゴへ向かう。マルケリヌスの指揮下に置かれたリキメルは遠征の西方軍のかなりの部隊を指揮下した。遠征中のリキメルの行動は彼がひそかに敗戦を望んでいるのではないかとの疑惑をもたらした。これは現実のものとなり、ボン岬の戦い(英語版)で合同軍は惨敗を喫した。艦隊の半数が沈められてバシリスクスはコンスタンティノープルへ逃げ帰り、マルケリヌスは(恐らくはリキメルの使嗾により)シチリアで部下に暗殺された。この結果、トリポリタニアとサルデーニャそしてシチリアがヴァンダル族に征服された。 ヴァンダル族に対する遠征の失敗は東西ローマ帝国の軍事力を大きく減らせた。敗戦を知った西ゴート族はガリア・ヒスパニアへの領土拡大を、ヴァンダル族はイタリア襲撃をおのおの再開させた。加えて、マルケリヌスの死により、リキメルが西ローマ帝国における唯一のマギステル・ミリトゥムとなってしまった。マルケリヌスはアンテミウス帝が重用する二人の将軍の一人であり、彼の死は皇帝とリキメルとの確執を広げることになった。リキメルはアンテミウス帝を「つまらぬギリシャ人」(graeculus)と呼び、アンテミウス帝はリキメルを「忘恩の男」と罵った。彼らの不和が臨界点に達したのはリキメルの支持者であったマギステル・オフィキオルム(英語版)(内務長官)ロマヌス(英語版)の裁判であり、470年にアンテミウス帝は反逆罪により死刑を宣告した。アンテミウス帝がロマヌスを処刑するとリキメルは数千の兵を率いて北上し、メディオラヌム(現在のミラノ)に入った。メディオラヌム司教エピファニウス(英語版)が両者の調停にあたった。 司教の尽力にもかかわらず472年に内戦が勃発した。蛮族の傭兵(オドアケルの兵も含まれていた)を率いるリキメルはローマへと進軍した。包囲されたアンテミウス帝は聖ペテロ大聖堂(英語版)に避難した。東ローマ皇帝レオ1世は両者の仲介のためにオリブリオス(以前、ヴァンダル王ガイセリックが皇帝に擁立しようとした人物)を派遣したが、(ヨハネ・マララスの記録によれば)同時にアンテミウス帝に対して彼を殺すようにと勧める秘密の手紙を送っていた。リキメルはこの手紙を手に入れてオリブリオスに示し、彼に皇帝の印である紫衣を贈った。包囲戦は5か月間続いた。リキメルは市内への突入に成功し、テヴェレ川の港とパラティーノとを分断して皇帝の支持者たちを飢えさせた。両軍ともガリアの軍隊に援軍を求めたが、ブルグント族のガリア軍区司令官グンドバト(英語版)は叔父のリキメルに加担していた。 アンテミウス帝は支持者たちがみな逃げ出すまで踏みとどまった。物乞いに変装して町から脱出しようとした皇帝はサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂で捕えられ、7月11日にここで斬首された。その後、リキメルはオリブリオスを正式に皇帝の座に据えた。
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