アンテミウス帝とは? わかりやすく解説

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アンテミウス帝(467年 - 472年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 05:45 UTC 版)

リキメル」の記事における「アンテミウス帝(467年 - 472年)」の解説

詳細は「アンテミウス」を参照 ヴァンダル族はこの皇帝空位西ローマ帝国対す影響力を増す好機であるととらえたヴァンダル族の王ガイセリックオリブリオス西ローマ皇帝候補推したオリブリオスガイセリック息子フネリックはともにウァレンティニアヌス3世皇女を妻としており、ガイセリックとは縁戚関係にあったオリブリオス帝位就けば、ガイセリックリキメル代わる帝国実権者となりうる。東ローマ皇帝レオ1世圧力をかけるべく、ヴァンダル族イリュリクムペロポネソス半島その他のギリシャ沿岸東ローマ帝国領域襲撃したヴァンダル族襲撃増加直面したレオ1世467年イリュリクム軍区司令官アンテミウス西ローマ皇帝指名したレオ1世アンテミウスダルマチア軍区司令官マルケリヌス将軍先にリキメル反逆した人物)をつけてイタリア送り込み、西の帝位確保させるとともにヴァンダル族から北アフリカ奪回することを望んだ当初リキメルアンテミウス指名は自らの権力弱めるものになる見なした。リウィウス・セウェルス帝異なりアンテミウス成功した軍歴持ちさらにはテオドシウス朝との血縁有していた。しかしながら東ローマ帝国からの援助欲していたリキメルは彼を受け入れざるを得なかった。新帝との絆を強めるためにリキメルアンテミウスの娘のアリピア(英語版)と結婚ししばらくの間両者の間に平穏保たれた。 アンテミウス即位するとすぐにリキメル権力釣り合いとらせるためにマルケリヌスパトリキ貴族)の称号与えリキメルと並ぶ二人目マギステル・ミリトゥム任じた468年東ローマ皇帝レオ1世北アフリカヴァンダル族対す大攻勢組織させ、東西ローマ帝国相当数軍隊集めたレオ1世義弟にあたるトラキア軍区司令官バシリスクス東西合同軍の最高司令官となり、マルケリヌス西方からの攻撃指揮官となったバシリスクスマルケリヌスそしてエジプト軍督軍ヘラクリウス英語版)による三方向からの攻撃計画された。1,000隻の船団によって運ばれるバシリスクス率い主力部隊カルタゴから離れた場所に上陸しトリポリタニアから西進するヘラクリウス軍隊合流する手はずになっていた。マルケリヌスシチリアサルデーニャ確保した上でカルタゴへ向かう。マルケリヌス指揮下に置かれリキメル遠征西方軍のかなりの部隊指揮下した遠征中のリキメル行動は彼がひそかに敗戦望んでいるのではないかとの疑惑もたらした。これは現実のものとなり、ボン岬戦い英語版)で合同軍は惨敗喫した艦隊半数沈められバシリスクスコンスタンティノープルへ逃げ帰りマルケリヌスは(恐らくはリキメル使嗾により)シチリア部下暗殺された。この結果トリポリタニアサルデーニャそしてシチリアヴァンダル族征服された。 ヴァンダル族対す遠征の失敗東西ローマ帝国軍事力大きく減らせた。敗戦知った西ゴート族はガリア・ヒスパニアへの領土拡大を、ヴァンダル族イタリア襲撃をおのおの再開させた。加えてマルケリヌス死により、リキメル西ローマ帝国における唯一のマギステル・ミリトゥムとなってしまった。マルケリヌスはアンテミウス帝が重用する二人将軍一人であり、彼の死は皇帝リキメルとの確執広げることになったリキメルはアンテミウス帝を「つまらぬギリシャ人」(graeculus)と呼び、アンテミウス帝はリキメルを「忘恩の男」と罵った。彼らの不和臨界点達したのはリキメル支持者であったマギステル・オフィキオルム(英語版)(内務長官ロマヌス英語版)の裁判であり、470年にアンテミウス帝は反逆罪により死刑宣告した。アンテミウス帝がロマヌス処刑するリキメル数千の兵を率いて北上しメディオラヌム現在のミラノ)に入ったメディオラヌム司教エピファニウス(英語版)が両者調停あたった司教尽力にもかかわらず472年内戦勃発した蛮族傭兵オドアケルの兵も含まれていた)を率いリキメルローマへ進軍した包囲されたアンテミウス帝は聖ペテロ大聖堂英語版)に避難した東ローマ皇帝レオ1世両者仲介のためにオリブリオス以前ヴァンダル王ガイセリック皇帝擁立しようとした人物)を派遣したが、(ヨハネ・マララスの記録によれば同時にアンテミウス帝に対して彼を殺すようにと勧める秘密の手紙送っていた。リキメルこの手紙を手に入れてオリブリオス示し彼に皇帝の印である紫衣贈った包囲戦は5か月続いたリキメル市内への突入成功しテヴェレ川の港とパラティーノとを分断して皇帝支持者たちを飢えさせた。両軍ともガリア軍隊援軍求めたが、ブルグント族ガリア軍区司令官グンドバト(英語版)は叔父リキメル加担していた。 アンテミウス帝は支持者たちがみ逃げ出すまで踏みとどまった物乞い変装して町から脱出しようとした皇帝サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂で捕えられ、7月11日にここで斬首された。その後リキメルオリブリオス正式に皇帝の座に据えた

※この「アンテミウス帝(467年 - 472年)」の解説は、「リキメル」の解説の一部です。
「アンテミウス帝(467年 - 472年)」を含む「リキメル」の記事については、「リキメル」の概要を参照ください。

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