アンテベラムにおける奴隷制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 03:15 UTC 版)
「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「アンテベラムにおける奴隷制」の解説
アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史も参照 アメリカ合衆国憲法の批准後の数十年間、南部の奴隷制は北部からの取り立てた反対も無く継続していた。北部のある者は奴隷制を道徳問題と見ていたが、大半は無関心であり、奴隷制の廃止はその経済的利益にとって有害と考える者すらいた。南部人の場合、綿花の隆盛が起こる前は数百人の奴隷を抱える大規模プランテーションも希であり、ディープサウスでのみ見られるだけのものだった。南部人の大半は奴隷を所有していた。その大半は北部の小農と同様に独立した小農だった。それでも奴隷制度は南部の社会と経済の仕組みの基盤を代表しており、奴隷を所有しない者ですら廃止にしろ段階的解放にしろ奴隷制を終わらせる提案には強烈に反対する者が多かった。 北部と南部の比較北部南部総人口 22,000,000 (71%) 9,000,000 (29%) 自由人人口 22,000,000 5,500,000 1860年境界州の奴隷数 432,586 - 1860年南部州の奴隷数 - 3,500,000 兵力 2,200,000 (67%) 1,064,000 (33%) 鉄道総延長 21,788 (71%) 8,838 (29%) 工業製品数 90% 10% 武器生産力 97% 3% 綿花生産量(1860年、樽) 微少 4,500,000 同上 (1864年) 微少 300,000 戦前の輸出高 30% 70% この表から外国との貿易に関して南部が独自の道を歩んでおり、何故奴隷制廃止に強烈に反対したかが分かる。綿花収穫に必要な人力の確保は奴隷制無くしては不可能だった。
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