奴隷制の廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 03:15 UTC 版)
「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「奴隷制の廃止」の解説
戦争が始まったとき、ミズーリ州、デラウェア州、メリーランド州およびケンタッキー州では奴隷制が合法だった。ワシントンD.C.でも新しく作られたウェストバージニア州でも奴隷制は合法のままだった。戦争の3年目になろうとする1863年1月1日、リンカーン大統領は奴隷解放宣言を発し、北部の支配下に入っていない合衆国の州で奴隷を解放した。これは幾つかの効果があった。例えば北軍を黒人兵で補強することや、戦争の性格を自由への聖戦に変えることだった。しかし、奴隷解放宣言は多くの面で制限があった。アメリカ合衆国から脱退した州にのみ適用され、境界州の奴隷制は不問にされた。既に北部の支配下になっていた連合国の州の部分も除外されていた。最も重要なことはそれが約束した自由は北軍が軍事的に勝利することに依存していた。1864年、既にレコンストラクションの道を進んでいたアーカンソー州とルイジアナ州は奴隷制を廃止する新憲法を採択した。 一般に信じられているものとは異なり、終戦は奴隷制の終わりにはならなかった。リー将軍の降伏から8ヶ月後の1865年12月にアメリカ合衆国憲法修正第13条が成立するまで、幾つかの州では奴隷制が存続した。
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