奴隷制問題と南北戦争
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「バンゴー (メイン州)」の記事における「奴隷制問題と南北戦争」の解説
南北戦争に繋がる年月で、バンゴーは反奴隷制政治の中心となった。これはバンゴー神学校の影響が有ったことにも拠っていた。1837年にはアメリカ反奴隷制度協会の支部があり、会員は105人いた。さらに会員100人以上の女性反奴隷制度協会もあった。1841年、反奴隷制度を掲げる自由党の知事候補がメイン州のどの市よりもバンゴーで多くの票を獲得したが、結果は急進的ではないバンゴー出身のエドワード・ケントに大差で敗れた。近くのオロノ出身でアメリカ合衆国下院議員のイズラエル・ウォッシュバーン・ジュニアが下院議員30人をまとめて共和党を結党する議論を始め、1854年6月2日のバンゴーにおける演説で「共和党員」という言葉を初めて使った政治家になった。 近くのハムデン出身のハンニバル・ハムリンがエイブラハム・リンカーン大統領の最初の副大統領となり、少なくとも教養あるエリート達に反奴隷制度感情を強化することに役立った。バンゴー市は次第に共和党に対する熱が高まり、1861年8月17日には民主党系新聞「バンゴー・デイリー・ユニオン」の事務所が暴徒に襲われ、印刷機などの物資が通りに放り出されて焼かれた。編集者のマーセラス・エメリーは暴力に怯えたが、無傷で逃げ出した。新聞発行を再開したのは戦後になってからだった。 バンゴーと周辺の町は南北戦争と深く関わった。地元で集められた第2メイン志願歩兵連隊(バンゴー連隊)が1861年に州内から出た最初の部隊となり、第一次ブルランの戦いでは重要な役割を演じた。バンゴーで集められた第1メイン重砲兵連隊は地元の商人に率いられていたが、戦争中に北軍のどの連隊よりも多くの兵士を失った(特に1864年の第二次ピーターズバーグの戦いでの突撃による損失が大きかった)。近くのブルーアーの町出身のジョシュア・チェンバレン少将が指揮した第20メイン歩兵連隊は、ゲティスバーグの戦いでリトルラウンドトップを死守して名声を得た。ユリシーズ・グラント将軍は、南軍のロバート・E・リーが1865年4月にアポマトックス・コートハウスでそのバージニア軍を降伏したとき、チェンバレン将軍にそれを受け容れる栄誉を与えた。チェンバレンはバンゴーまたは周辺のペノブスコット郡出身で南北戦争中に名誉勲章を得た8人の軍人の一人となった。バンゴーとブルーアーの町を繋ぐ橋はチェンバレンと名付けられた。 バンゴー出身で南北戦争中海軍の英雄はチャールズ・A・ブーテルであり、モービル湾の海戦後に南軍艦隊の降伏を受け容れた。バンゴー市内にはブーテルと名付けられた通りがある。バンゴーの多くの船が南北戦争中に公海上で南軍襲撃船に捕まえられた。例えばデルファイン、ジェイムズ・リトルフィールド、メアリー・E・トンプソンおよびゴールデン・ロケットである。 メイン大学(当初はメイン州立カレッジ)は1868年にバンゴーの郊外町オロノに設立された。 1880年代、地元では東部標準時帯の採用を巡って論争があった。バンゴーはこの等時帯に入るには遙か東にあり過ぎたからだった。一時は反東部標準時帯の市長(J・F・スノー)をすら選出し、2つの等時帯がある時期もあった。その時計を東部標準時に設定する市民がおれば、地元時間で設定する市民も居た。この問題は州議会で決着され、メイン州全体で東部標準時を採用した。 メイン州は1851年の「メイン法」の成立で最初のドライ(アルコールの販売を禁止)州になったが、バンゴーは「ウェット」のままに残った。1890年には142の酒場があった。地元の警官や政治家は見て見ぬふりをしており(「バンゴープラン」と呼ばれる形式上の科料という形で賄賂が贈られていた)、国内でも最も長い禁酒法をバカにしていた町となった。
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