奴隷制度廃止の後で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:13 UTC 版)
「ウィリアム・ロイド・ガリソン」の記事における「奴隷制度廃止の後で」の解説
アメリカ合衆国で奴隷制度が廃止された後、ガリソンは社会改革の運動で働き続けた。特に禁酒運動と婦人参政権の運動だった。ガリソンは1865年末に「リベレーター」の発行を停止したが、その前の5月にアメリカ反奴隷制度協会の会長職辞任を宣言し、奴隷制度に対する闘争の勝利宣言と協会の解散を提案した。しかし、この提案は鋭い批判を呼ぶことになった。ガリソンの長い同調者であるウェンデル・フィリップスは、協会の使命は南部の黒人が完全に政治的にも市民としても平等を獲得するまでは終わっていないと主張した。ガリソンは、完全な市民としての平等は絶対に必要なことではあるが、協会の特別の任務は終わったのであり、新しい任務は新しい組織と新しい指導者によって行われるべきと反論した。しかし、ガリソンの長い間の同調者も2つに割れ、彼の提案の採決に必要な支持を集められないまま、動議は118対48で否決された。ガリソンはその辞意を変えることなく、会長職の継続の申し出も辞退したので、フィリップスが協会の会長を継いだ。ガリソンは「奴隷制度廃止運動家としての私の仕事は、神のお陰で、終わった」と宣言した。ボストンに戻ったガリソンは妻に「そうさせておくさ。私には全体がばかげたことに見える」と諦めたように告げた。ガリソンが協会を退いた後も、協会は活動を続け、5年後の憲法修正第15条の批准で終わりを告げた。 アメリカ反奴隷制度協会から引退し、「リベレーター」も廃刊したガリソンは、大衆討議への参加は続け、幾つかの改革論を支持した。特にフェミニズムと黒人の市民権には注意を注いだ。1870年代、ガリソンは幾つかの講演旅行を行い、また「ザ・インデペンデント」紙や「ボストン・ジャーナル」紙にレコンストラクションや市民権に関する寄稿をし、「ウーマンズ・ジャーナル」紙には準編集者として度々寄稿し、さらに古くからの同調者であるアビー・ケリーやルーシー・ストーンと共にアメリカ婦人参政権協会 (AWSA)に参加した。 AWSAで活動中の1873年、ガリソンは長い間離反したままだったフレデリック・ダグラスとウェンデル・フィリップスとの仲を戻した。それはボストン茶会事件の100周年を記念してケリーとストーンがお膳立てしたAWSAの集会という舞台で心の籠もった仲直りとなった。1874年にチャールズ・サムナーが死んだとき、共和党員の中にガリソンを後継上院議員として推す者がいた。ガリソンは政府の地位を取ることに対する道徳的な反感からこれを辞退した。 ガリソンは家族との時間を多く過ごすようになり、毎週子供達に手紙を書いた。妻のヘレンが1863年12月30日に卒中を患い、家に閉じ籠もるようになっていたのでその世話をしていたが、1876年1月25日、ヘレンは厳しい寒さのために肺炎を悪化させて死んだ。静かな葬儀がガリソンの家で行われたが、ガリソンは悲しみに打ち勝ったものの、発熱と気管支炎のために寝室に籠もらざるを得ず、階下の葬儀には参加できなかった。ウェンデル・フィリップスが弔辞を読み、ガリソンと共に奴隷制度廃止運動を戦った古くからの友達が大勢二階のガリソンの部屋に来て、個人的な弔意を伝えた。ガリソンは妻を失った悲しみからゆっくり立ち直り、ヘレンと会話できるかもしれないという望みから降霊術者のサークルに参加するようになった。ガリソンは1877年にイングランドへ最後の旅を行い、ジョージ・トンプソンやその他のイギリス奴隷制度廃止運動の友を訪問した。 ガリソンは腎臓を患っており、1879年の4月に病状がおもはしくなかったので、ニューヨーク市にあった娘のファニーの家に移った。5月、さらに病状が悪化したので、残っていた5人の子供達が見舞いに訪れた。ファニーはガリソンに賛美歌を歌いたいか尋ねた。ガリソンは歌えなかったが、子供達がガリソンの好きな賛美歌を歌い、ガリソンは手と足で拍子を取った。土曜日の朝、ガリソンは意識をなくし、1879年5月24日の夜半直前に死んだ。ガリソンの告別式ではセオドル・ドワイト・ウェルドとウェンデル・フィリップスが弔辞を読んだ。5月28日、マサチューセッツ州ジャマイカ・プレーンのフォレストヒルズ墓地に埋葬された。奴隷制度廃止運動の友人8人、この中には白人も黒人もいたが、棺を担いだ。ボストン市中で半旗が掲げられた。当時連邦保安官に採用されていたフレデリック・ダグラスが、ワシントンD.C.の教会で行われた告別式でガリソンの思い出について語った「彼が真実と共に一人で立ち上がり、静かに結果を待ったことは、この男の誇りである。」
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