河童
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河童(かっぱ)は、日本の妖怪。日本三大妖怪のひとつで、本邦でもっとも馴染深い水棲の妖怪[3]。
名称
「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの[8]。また柳田國男は『妖怪談義』において「川童」と表記している[9]。河太郎(かわたろう)とも言う[8]。
ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。地方名の数は80余に及ぶという[10]。『物類称呼』(1775年)に、越中(富山県)の「ガワラ」など地方名称がとりあげられる[11][12]。『本草綱目啓蒙』(1803年)も20ほどの地方名を列挙する[13]。
古くは東国では「かっぱ」[注 1]、西国(九州や畿内[11])では「かわたろう」や「がわたろう」と大まかに呼びわけたことが江戸期の資料にうかがえる[17][11]。
異称にカワロウ(
カワコ(川子)は、中国地方や瀬戸内海沿岸に及んで広域に用いられるが(例:岡山県笠岡市[29])、コウゴと発音されることも多い[30]。このカワコは、ラフカディオ・ハーンも地元の出雲(島根県)の語として記載している[31]。
土佐ではガタロウ、カダロウ[注 4][11]、カタロと昔から呼ばれていた[14]。
またエンコウ(周防、土佐、伊予[14][32])、異形エンコ(伊予松山[14])(またいずれかの形は、出雲、石見、長門でも、[32][33])という猿のような異称も流通してきた。これら地方では、現代に入っても猿似だと報告されることが多かったという[32]。ただし矛盾しているのが、河童と猿は仇敵だとされている点である[32][34]。
地方によって、「スイコ」という語が河童の別名で用いられてもおり、東北地方や九州地方など各地に見る事が出来る。青森県に見られる水虎様と呼ばれる水神信仰にも、「水虎」という言葉の転用例が見られる[35]。これは津軽弁でなまって「おしっこ様」と呼ばれるそうである[36]。江戸期では、「河童・川太郎」の漢語訳名に「水虎」を充てる書物が多々あることにについては、以下 § 水虎と漢訳参照。
北海道松前地方では(駒引きにちなんで)コマヒキとも呼ばれた[27][37]。
また、カワウソと呼ぶところもある(愛媛)[38]。
ガメ(越中/富山県)とも呼ばれ、亀によく似た形状と考える地方も多い[39]。さらには、ドチロベ・ガメ・ドチ/ドツチが、岐阜・富山・石川の三県では同一視され混用されている[40][41]。ドチロベ等は腹は赤く、尾がふさふさとした生き物であるが[42]、齢千年を経て河童に[41]、あるいはカーラボーズ(河原小僧)という(おおむね人型だが、猩々のような頭で体[も]赤く、頭に水を保つ鉢がある)妖怪に変ずるという[43][42]。美濃でも、カワランベ(河童)とドチは、似て非なるものと区別することもある[39]。ドチ系統の名称にドチガメ(北陸地方)[38]などがある( § 類種の「メドチ」参照)。
なお江戸期に河童を「水虎」と漢語訳的に表記したことについて、附録解説として 水虎と漢訳 § 参照。
類種
良く知られる河童の地方名称(または近似種名)に、九州南部(や佐賀県[44])のヒョウスベがあり[45]、東北地方北部のメドチがある[46]。このメドチほか(ミヅシ・シンツチ・ミンツチ・ドチ)などは、ミズチ(蛟、怪蛇、「水の主」)の系統の名前とみなされている[47][48]。 「ドチ」系統の呼称が美濃などにみられることは、すでに上で取り上げたCITEREF石田2017。
ほかにも和歌山県のカシャンボ[49]、茨城県のネネコ(禰々子)が河童の一種とされる[50][注 5][注 6]。
セコは、河童が冬の季節に山にこもるとそれになりかわるという九州に伝わる存在である( § 冬に山入り参照)。奄美諸島のケンムン(ケンモン)も[52]同系で、『南島雑話』の図の添え文には、「カワタロ」「山ワロ」の類であるという付記がある[注 7][55]。
また、長野県下水内郡のセーシン、セージンという「水神」をくずしたような地方名もみつかる[56][20]。
形態

現在一般的な河童のイメージは、体格は子供のようで[4][注 8]、全身は緑色系統で[61][注 9]、ぬめっている[59]。頭頂部に皿があり[61][65][4](皿は円形の平滑な無毛部だが)、それ以外は長い頭髪を垂らしている[65][注 10]。
口は嘴のようにすぼまっており、背中には亀のような甲羅を背負っいて[65][61][4]、カメ・スッポン型の要素を踏襲するが、19世紀中葉以降、カエル似で滑稽な要素が強くなっている[61]。手足には水掻きがあるとする場合が多い[65][4]。
上述のように、河童のことをエンコウ・エンコと呼びならわしてきた中国地方や四国地方では、現代においても猿の形態と伝えるままの名残が残る[32]。 § 冬に山入りで取り上げるセコ系統も、川ワロから山ワロになるとされるわけで、多毛の分類に入るであろう。しかし、一般論をいえば、河童と言えば主にスッポン・カエルを想起させるイメージが主流、猿型は亜流と現在ではなってしまっている[69][70]。
頭の皿
頭の皿は、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う[71]、または死ぬとされる。
頭の皿については、すでに寺島良安『和漢三才図会』(1712年刊)[17]や越谷吾山『物類称呼』(安永4/1775年)にみえ、前者は漢文だが体格“十歳ばかりの小児”のそれだとしており、頭の皿が弱点であることも[注 11]、既にこの頃までには成立していたことがうかがえる[注 12]、後者には“其かたち、四、五歳ばかりの[童](わらは)のごとく、[頭](かしら)の毛赤うして、頂(いただき)に凹(くぼ)なる皿有り。水を[貯](たくは)ふる時は力はなはだつよし。性相撲を好み..”と、皿の水が力の源である旨も記述される[11][13]。
体臭・粘質
体臭については、"腥(なまぐさ)臭が鼻に満ち、脇差で刺そうとしても中(あた)らず"、また体がぬめり("涎滑")で覆われて捕らえるのは困難である、と『大和本草』にみえる[67]。
繋がった腕
両腕は体内で繋がっており、片方の腕を引っ張るともう片方の腕が縮み、そのまま抜けてしまうこともあるとされる[72][73][59]、これは、中国の伝承でテナガザルについての説明が混入したものだろうと考察される[73][74][75]。
行動
川や沼の中に住み、泳ぎが得意。博多湾岸の伝承のように[76][77]、海に住むと伝わるものもある。
魚を捕るのは得意であり[78][79]、これは魚を貢ぐ報恩譚のモチーフからもあきらかである( § 恩返し参照)[81]。
河童にまつわる民話や伝承には、「悪戯好きだがひどい悪さはしない」とか「土木工事を手伝った[82][注 13]」とか、「河童を助けた人間に魚を贈った[77]」「薬の製法を教えた」「溺死者が出ないようにすると誓った[76]」といった友好、義理堅さを伝えるものも多く伝わる。一方で、水辺を通りかかったり泳いだりしている人を水中に引き込み溺死させたり[84]、また、江戸期の文献によれば、たとえ河童が引きずり込みに力負けしても、絡まれた人間は精神疾患となるといわれた[84]。
相撲
相撲については、すでに「角力」[注 14]が好きだと『大和本草』[67]にあるが、これは「人と相抱きて力を角(くら)ぶ」と読み下すべきとされる[85]、力比べと解される[83]。のちの『和漢三才図会』に「相撲」好き、とみえる[17][60]。
河童は力が強いが、仏前に供えた飯を食べた後に闘えば負けないとも言われる[87]。また相撲をとる前にお辞儀をすると河童もお辞儀を返し、それにより頭の皿の水がこぼれてしまうため、力が出せなくなるともいう[88][89]。河童が相撲を好むのは、相撲が元々、水神に奉納する行事だったためとも言われる[90][91]。
キュウリなど好物
キュウリが大好物というのが今では定番だが[92]、すでに『和漢三才図会』(1712)にも川太郎が"瓜・茄・圃穀(ウリ、ナス、畑の穀物)を盗む"とあり[17][60]、『本草綱目釈義』に「黄瓜(キュウリ)と西条柿を好む」と書かれる[14]。キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり[93]、キュウリは初物の野菜として水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる[94]。いまでも6月1日や15日に、神棚や洞に祀った河童に初物のキュウリをお供えしてからでないと人間が口にしてはならないという風習があり、古風に「水神さまへ」の供物とする地域もある[95]。
また、瓢(ひさご、ひょうたん)は、古来より水の神と関りが深く、相撲節会で奉納する試合でも片方の力士は瓢箪の花を挿すことになっていて相撲とも関連する。そして同じウリ科のキュウリは、瓢を小さくしたものにやや似ており、その断面が、神紋であるとか、祇園守りの紋所だという地域がある(折口信夫の考察)[96]。その一方では、キュウリの切り口が「五瓜に唐花紋」という牛頭天王の家紋に似ているため、逆に河童に恐れられて、河童除けになる、と福岡県柳川市では言い伝えられているという[74]。
尻子玉

また、尻子玉/尻小玉(しりこだま)を抜くというイメージも現在では定番である[65]。尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で[注 15]、尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」になるとも[97]、その人は死ぬともいわれる[98]。河童は、抜いた尻子玉を食べたり、竜王に税金として納めたりするという。「尻子玉を抜かれている」状態は、人間の死体において肛門括約筋が弛緩していることに由来する(つまり死を間接的に意味する)のではないかと考えられる[99]。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様に、溺死者の姿が、内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる[100]。
『夭怪着到牒』(北尾政美画、天明8/1788年刊)には、「河太郎尻子玉を抜く」の図があり(右図参照)、添え文では人間を川中に引きずり込み、腸(はらわた)を食らうが、その被害者は浮かばれずに亡霊になって漂い、共食いをするのだという[101][102]。
また『北斎漫画』(第12編[103])に「河童を鉤(つ)ルの法」と題して、男がブランコのようなものに乗り、尻を突き出して誘い、魅了された河童が水からはい出る構図がある[104]。
水死体がみつかると、括約筋が弛緩して、まるで尻から玉をとりだしたようにバックリ空いているので、河童の仕業にことよせてそういう伝承がつくられたのだろう、と考察される[74]。これに似た考察を南方熊楠もしているが、民間伝承によれば、「水蛇」が河童と同じく人を捕り殺す(『善庵随筆』)、また、越後の川蛇、出羽のトンヘビは、尻から内臓を食らう(『さへづり草』)といわれており、実際には蛇か魚類かわからないが、溺死者の肛門に侵入して荒らし食うようなことはありえることで、それによって尻の穴の異常で発見された水死体があれば、河童の仕業にされるだろう、という見解である[47]。
牛馬引き
牛馬を水に引き込むといわれる[4][105]。馬を水中にひきずりこむ説話は、各地にあり、東北(岩代、陸中、越後)、関東(常陸、武蔵、相模)、中部地方(駿河、三河、甲斐、信濃、飛騨、美濃、能登)、山城(京都府)・播磨(兵庫県)、中国地方(出雲、長門)、四国(阿波、土佐)、肥前等、ほぼ全土にいきわたるという[106]。
『和漢三才図会』にも、既に、例の伸縮自在の腕をあやつり、牛馬を水に引き入れ、尻から血をことごとく吸ってしまう、という伝承が記載される[15][60]。
魔除け
鉄、鹿の角を嫌うとされる[107][108]。猿が宿敵であることは、上に述べた[32][109]。 § 滋賀県も参照。
冬に山入り
河童が季節に応じて山と川を往復する[110]、すなわち晩秋・冬になると山に籠り、晩春・初夏になると川にくだってくるという伝承は各地にある[111]。山に入ると、セコ/セココ、セコンボ、カルコ、カリ/カリル、コボなどと名称が変わる[112]。
セコの名称は、大分・熊本・宮崎・長崎県にみられるが[112][113]、セコ、セココ、は勢子のような大声出すから付いた名称という[114]。また、九州で河童のことをヒョウスボと呼びならわす地方では、山に入るとヤマワロとなる、といわれる[115]。山童(やまわろ)が春になると大挙して人里の屋根伝いに川に降りてきて、ガラッパになるとも伝えられる(熊本県)[112]。
奈良県吉野郡ではガンタロ(河童)が山に入ってヤマタロと化すという[112]。和歌山県では、ケシャンボになる[116][注 16]。
図像学
大別
河童について著述された『水虎考略』(1820年)や、『水虎十二品之図』によれば、甲羅をもつタイプは毛が生えておらず(以下、 § 亀人形態参照)、全身が毛におおわれた者には甲羅はない( § 類人猿携帯参照)とされ、二系統が存在するという[117][118]。
京極・多田 (2008)では、江戸時代には統一像が定まってなく、“大別して三種類の姿形”があったとし、「猿・人形タイプ」、「水虎タイプ」、「スッポン・亀タイプ」と、ひとつ増やした項目をもうけている[59][注 17]。
「猿・人形タイプ」は、濃い体毛に覆われる様が、猿似ともカワウソ似[119]ともされ、初期のヤマネコ似のタイプ( § 山猫型伝説参照)もこの大分類にふくまれる。頭髪はザンバラ髪である[59]。
“口先を尖らせた容貌で、背中に甲羅を背負う姿”なのが「スッポン・亀タイプ」とされる[59][104]。
「水虎タイプ」は、体は毛が無く、全身がウロコで覆われた形態である[59][注 18]。
いずれが主流となったかは、時代のながれとともに遷移したが、これについては、図像のある文献の考察も交えて § 時系列に後述するが、小澤論文ではスッポン・カメ型のみならず、カエルの形態が強く出ている作品の台頭や定着に注視している[121]。
時系列
18世紀以前の本草学・博物学書上における河童のイメージは、主に猿型[122](哺乳類型)で、両生類的ではなかった[123]。例えば、『下学集』(文安元年/1444年序、後に重版)には「獺(カワウソ)老いて河童(カワロウ)に成る」とみえ[12]、『日葡辞書』(1603年刊)の「カワラゥ」の項では、川に棲む猿(bugio)似た獣と釈義される[126]。『和漢三才図会』「かわたろう」の項や[17][122]、平瀬徹斎『日本山海名物図会』(長谷川光信画、宝暦4/1754年刊)の相撲を取る図でも猿似である[122]。
『和漢三才図会』の「川太郎(かわたろう)」は、毛でおおわれた猿似の河童の挿絵を伴っている[104]。また後述の『西播怪談実記』(1754年)で腕を斬られた「河虎」河童も、いわゆる猿型で、全身が毛におおわれた描写になっている[127]。(短い線を多数書き込んだ筆づかい)。頭に窪みがあり、頭の皿のような描写も現れている[127]。

一方、江戸では18世紀後期に西国の猿型から乖離したイメージの河童が書かれるようになり、その代表に鳥山石燕『画図百鬼夜行』(安永7/1778年)の「河童」図であるが[128]、(細かい点々や縞もようなどの筆づかいが)「水虎」のごとく鱗でおおわれた肌に(縞)模様がある、と解釈されており[130]、ぶよぶよな質感[注 19]も表現しているという[128]。上述の『夭怪着到牒』(1788年刊)の河童も、(同じく細かい点々の筆づかいであるが)こちらは、カエルかカメのまだら模様と解釈されるのが、小澤葉菜の論文にみえる[131]。
19世紀初頭になると、『河童聞合』(1805年)という、豊後国日田藩代官[注 20]が、儒学者の広瀬三郎右衛門桃秋(1751–1834年)[注 21]に命じ、近辺界隈での体験談を、題名通り目撃者から取材させて記録した文献が現れた[132]。豊前国・筑後国からつごう六件の体験談(うち4件は相撲を取らされた話)をまとめている[133]。また、現存しないが、彩色画が加えられていたことが分かっている[注 22]。
その後に現れた古賀侗庵編『水虎考略』(文政3/1820年; 天保7/1836年写)[注 23][注 24]という「河童」に関する口碑資料集成は12点ものであるが、うち6点は日田藩資料の文言の丸写しであり、よってそれらに対応する6点の彩色図は、遺失した『河童聞合』の原画の模写にほかならない[137][138]。また、こちらの6点は、頭の皿にザンバラ髪の、いわゆる「猿人型」河童である、と考察される(まわしを[139]つけた個体の絵の対面にある、水かきのついた片足図も含めば7点の絵である[139][140])。『水虎考略』の残り半分である6点の絵は、いずれも「スッポン型」であるとされる[141]。
そしてその後、河童の図解の転機となったのが、本草学者・栗本丹洲(1834年没)の『千蟲譜』(文化8/1811年序)の河童の絵で、口のすぼまったタイプの河童は、自然界のスッポンを見本にしたものと考えらる[142]。丹洲による著書には『水虎考』(成立年不明、天保14/ [1843年]写)も存在する[143][144]。
その後に現れた『水虎十弐品之図』(1850年?)についても、いかにもスッポン似の妖怪図が含まれるといわれる[145][147]。『水虎十弐品之図』は、坂本浩然著・坂本純沢画の一枚刷りであるが[148][117][149]、これも他の資料で増補して変更などが加わっているが、12点ものの『水虎考略』やその初写本系統の流れをくんだ派生・踏襲の作品だとみなされている[150]。
いわゆる「スッポン・亀タイプ」は、だんだん猿型のイメージを圧倒して、淘汰していった[104][70]。

葛飾北斎『北斎漫画』(第3編[152]、右図参照[74])に単体で絵が描かれた体育座りポーズの河童は[153][154]、亀のような口ばしや甲羅を持っている反面[104]、(亀類らしからず)体は綿密に描かれた鱗で覆われているが[155]、おおむねスッポン型とみられる。ただしこれは、海棲のものだとされる[74]。
『北斎漫画』第12編「河童を鉤(つ)ルの法」にも描かれるが[103]、こちらははっきりとスッポンをモデルとした河童の図である[注 25][104]。
また、門下生の葛飾北雅に『河童図』と題して胡瓜に乗った河童の絵があるが、口がすぼまった形態の河童である。腰には蓑を巻いている[157]。


19世紀中葉には、カエルの特徴が強く出た“滑稽で愛嬌のある”イメージの河童が、浮世絵師などによって形成された。その好例が、歌川国芳『本朝剣道略伝・毛谷村の六助』(天保14/1843–弘化4/ 1847年)で、甲羅もなく、カエルの要素が強く出る(左図参照)[158]。更なる例に月岡芳年、『東京開化狂画名所・深川木場川童臭気に辟易』(明治14/1881年、右図参照)があげられる[159]。
スッポン型から推移して、この滑稽なカエル型(甲羅の有無はあるが)が、現在まで至ってイメージとして固定化している[160]。
18世紀半ばに、山がなく猿に馴染みのない江戸の人びとに受容しやすい、カエルやスッポンに似せた両生類的な江戸型の河童のモデルが生まれた[70]
日本画家の小川芋銭(1868-1938)は、河童を好み多数の河童の絵を残したことから「河童の芋銭」として知られている。晩年には画集『河童百図(1938年)』を出版しており[161]、いきいきとした河童像を作り上げた[159]。
江戸期からのユーモア性をおびた河童は、のちの時代にも踏襲されている[159]。昭和期、清水崑の連載漫画、『かっぱ川太郎』(『小学生朝日』、1951-1952年)や『かっぱ天国』(『週刊朝日』、1953–1958年)などを通して[159]の可愛らしいながらに滑稽なイメージの河童が大衆に浸透した[104]。
各地の伝承
河童に関連する有形の遺物としては、各地に河童神社(宮崎県磯良神社[162])、河童塚(宮崎県・徳泉寺[163])がある( § 寺社も参照)。
恩返し
特効薬
河童が武士に片腕を切り落とされ、刀傷に効く妙薬も献上したとされる話も伝わる[63]。
古くは春名忠成『西播怪談実記』(宝暦4/1754年)に記述があり、
よって、そうした薬の製法を河童から教わって家伝とすると称する旧家も存在する[166]。(河童の腕を拾って返すと妙薬を譲ってもらった伝承例は、以下 § 茨城県参照)。
河童(全身)のミイラが少数例、各地に所蔵されるのみならず(以下、 § 河童のミイラ参照)[167]、河童の手のミイラの例が(切り落とされたと伝わるものも含め)いくつかみつかる[168]。
詫び状
また、悪戯な河童が武士に腕を斬り落とされ、詫び状を差し入れる話型は全国に伝わる伝承である。 [63]。よって、河童の詫び状と称する物品を、家宝や寺宝とする例も見受けられる[63]。
魚
また、悪さをした河童を許すと河童が魚を取って恩返しする伝説は、愛媛県明浜町(現・西予市。若宮神社関連、河童/エンコ[169]の報恩譚については「かっぱの狛犬」参照)、岐阜県飛騨地方にも伝わる[171]。
万亭叟馬作『由利稚野居鷹』(百合若大臣もの、北斎画、文化4/1807年序)には、出羽国(山形県)城下に近い里の村人に捕らえられた河童が、漢方薬の材料にもなろうと医師の悦斎(悅齎)に引き渡されたが、医師は手当して釈放してやると、その後、新鮮な魚を届けるようになった話が所収される[164][172]。
九州地方
九州には
熊本県
河童は水に12時間潜っていられるが、猿は24時間潜れたので闘うと猿に負けるという民話もある(八代郡上松求麻村、1952年に採取)[176]。
福岡県
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の男性どもはヘイケガニになったと伝わるが、女性たちは、福岡に落ち延びて河童になったともいわれる。そのひとりが海御前である[177]。
- (筑後国)
筑後国(福岡県)の筑後川付近には「河童と地元民とのもめごと」や「河童族同士の戦争」の伝説や「河童にちなんだ地名」など比較的年代が明確ではっきりした記録が数多く残っている。
久留米市の水天宮では毎年8月には、水の祭典という祭りが行われる。少なくとも昔には筑後では河童の事を水天宮[26](スイテングウ[4])と称したとされるが、だんだん水天宮をより上位の水神とし、河童はその眷族とされるようになった[178]。ある説話では河童が水天宮の神をおそれて犬鳴川に流れ着いた話があり[注 26]、水に近寄るとき「水天宮の申し子」だと唱えると、河童にひきずりこまれないという[180]。
うきは市吉井町(旧吉井町)から久留米市(旧田主丸町)にかけて流れる巨瀬川流域には河童がいたと言い伝えられている。巨瀬川の脇にある高橋神社においては、昔から毎年9月には“かっぱ相撲”が行われ、昔は大人の草相撲であったが、最近は近隣の幼稚園児から小中学生による相撲で、背中にかっぱの甲羅を描き相撲を取る。
- (筑前国)
筑前国の伝承では、1783年(天明3年)、百道(福岡市早良区)に藩士屋敷が建てられたが、藩士が釣った魚を盗まれることがあった。藩士の息子である12、13歳の少年3人が見張っていたところ、「7、8歳位の色の黒い小僧」が魚の籠持ち去ろうとしたため少年たちが飛びかかったが、その正体は河童で3人がかりでも敵わず、皿の水をこぼしてようやく捕らえることができた。迎えに来た親の河童が嘆願し、「今後80年間百道の海岸で溺死者が出ないようにする」という証文を千眼寺(早良区藤崎に現存する)に預けた。それ以降、年に数人の溺死者が発生していた百道海岸では、80年間水難事故が無かったという[76]。
地行(福岡市中央区)には、酒を飲んだ河童が月の出た青天の夜に松の木に寄りかかって寝ていたという伝承が残る。ある夏の日、嘉兵衛という舟子の男が酒を飲みながら船を出して釣りをしていたところ、河童が酒を欲しがったので追い払ってしまった。しかし寝ている間に河童に船を乗っ取られ酒を飲み干されたので怒ったところ、河童は不漁の時にも魚を持ってくるので許しを乞うた。嘉兵衛はそのまま許したため、それ以来、嘉兵衛が不漁の時には河童が魚を船に投げ込んできたという。河童が寝ていたという松は、近代まで樋井川河口に残っていた[77]。
佐賀県
旧・杵島郡橘村(現・武雄市に編入)の潮見神社には、橘氏傍流の渋江氏が、水神に仕える河童使いとして祀られ、その境内には「誓文石」が置かれていたが、渋江氏に捕縛されて、この石の上に花が咲くまで絶対に人は取らないと誓約させられた名残だとされる。渋江氏が五月五日に河童にタケノコを馳走してもてなしたが、これが発祥となり水神にも供えるようになったという[181](渋江氏と河童、タケノコについては § 長崎県も参照)。
大分県
豊前国(大分県)の中津市耶馬溪町に鎮座する雲八幡宮では、古くから「河童楽」という河童封じの神事(通称:河童まつり)が行われている。それは河童を中央に囲み、楽を奏し、唐団扇(とううちわ)と言われる大きな団扇で仰ぐことにより荒ぶる河童の霊魂を鎮めるというもので、その後は河童の神通力によって村の平和は守られたと言い伝えられている。筑後国に伝授されたものと河童楽由来記は伝えるがいつごろから始まったのか定かでなく、筑後にもその伝承が残っていない。現在、大分県無形民俗文化財として指定されており、少なくとも江戸中期ごろかそれ以前より毎年夏の例大祭に奉納されている。
長崎県
河童女が、豪家の夫のもとを去り行き、井戸に飛び込んで海に逃げて行くが、井戸底には椀が沈んでいたという話がある。このような名残を残していったのは、信田妻(で和歌を屏風に残していった事)にも似る、と折口信夫が考察する[182]。
おなじ長崎県の平戸の類例では、河童女は妻ではなく下女働きであるが、皿一枚落として割ったため、武士の主人に斬りつけられ、河童となって海に逃げていった[182]。
五島列島南部の福江島の伝承では、相撲好きの男が河童の腕を一本もぎ取って勝利し、幾日経って腕を返してやると、十人がかりではこぶような青石を返礼として持ってきたという[183][184]。
また長崎県長崎市本河内町の水源地の水神社にも「カッパ石」が置かれており、昔、宮司の渋江氏が五月の節句[注 27]に、悪戯好きな河童をもてなすと称して、そのじつ自分はタケノコを平気な顔で食べ、河童には硬くなった老竹の輪切りを食べさせ閉口させた懲らしめた逸話が残っている[184][185]。
四国地方
高知県
文政3年(1820年)9月12日 、土佐幡多郡鍋島村(現・高知県四万十市鍋島)の庄屋・兼松多助が、四万十川大島六町島ノエゴにて、2尺5寸(約75㎝)の河童らしき怪物をボラ網で捕獲する。手足に黒く粗い体毛が生え、撫でると鰻のように滑り、顔は色白で猿に似るも体毛はなく、生臭い臭気を放っていたと『三安漫筆』に記されている[186]。
中国地方
広島県
広島市の猿猴川(えんこうがわ)には、その名前の由来となっている「猿猴(えんこう)」という生物の伝承がある。この猿猴は、伝承での形容から河童の一種であると考えられている。詳しくは「猿猴」の項を参照のこと。
近畿地方
滋賀県
『閑窓自語』(1793–1797年)に、近江国(滋賀県)内での河童(「かはら(かわら)」)の伝承が記される。湖水、すなわち琵琶湖の水系に多くいて、人を捕ったり、かどわかしたり、夜更けに訪ねてきて呼んだりする。これを避けるには、
中部地方
静岡県
- 釜化河伯
- 駿東郡徳倉村狩野川の釜か淵。嘗て源頼朝が富士の巻狩りを行った際鋳った釜2つがこの地の山王の社に奉納されており、それを盗賊が盗んだ際重さに堪えられず川に捨ててしまった所、釜が河伯に転じたという[189]。
- 老婆殺河伯
- 安倍郡淺畑東村の淺畑池。小吉という少女を殺した河伯を小吉の祖母が捕えたという。
- 瀬名村の巴河。観応2年7月、瀬名村の村長の娘小葭を殺した河伯を小葭の祖母が殺したという[190]。
- 河童
- 庵原郡の巴河に現れるという[191]。
長野県
千曲川の河童を佐久の今岡地区の人が捕まえ、臼に縛って魚を食べさせ飼っていた。ある夜、河童が夢枕に立って「屋敷にゴボウの種を絶やさないようにするから助けてくれ」と頼むので放してやった。それから後は屋敷にゴボウが絶えないという[192]。
北佐久郡立科町と長和町には河太郎という名の河童にまつわる伝説がある(女神湖、夜の池を参照)。
関東地方
茨城県
茨城県の牛久沼には[注 28]、「悪さをする河童を捕まえ松の木にくくりつけたが、改心したので逃がしてやると、河童が草刈りをしてくれた」、「河童の手を拾って河童に返したところ、河童が万能の膏薬の作り方を教えてくれた」など、河童にまつわる伝説が多く残っている。

また、江戸時代に海で捕獲されたという例では、水戸浦[注 29]に享和元年/1801年に上がったとされる、亀かスッポン似の河童が図入りで朝川鼎の『善庵随筆』(1850年刊)に掲載される。これには四つん這いの図も含まれる(左図参照)。添え書きによれば、頭が甲羅に引っ込んで八分がた隠れる構造で、骨はなさそう、また尻の穴が三つあったという。屁が「スッ/\」という音だったという( § 屁の河童参照)[194][195][196]。
神奈川県
神奈川県の茅ヶ崎市には、五郎兵衛という者に助けられた河童が、お礼に徳利を持ってきたという「河童徳利」の伝説がある。その徳利は静岡県で子孫が保有している。
目久尻川では、古くからの言い伝えに「川沿いの畑を荒していた河童を捕らえた農民たちが、怒りのあまり目玉をくり抜いてその血とともに川に流した」とある。「目をくじる(くり抜く)」が地名の由来とされ、川のほとりには、地域住民によって河童の像が祀られている。
埼玉県
熊谷宿(現在の熊谷市)にあったある商家の女将が、厠で荒川の河童にいたずらをされ、短刀でその片腕を切り取った。翌日現れた河童にいたずらをしない約束を取り付けて腕を返し、詫びの印として接ぎ薬の秘法を伝授され、女将はその薬を売って財を成したという[197]。
川島町にもまた、伊草の袈裟坊という河童が腕を切り落とされ、その腕を返した家に秘伝の薬が伝えられたという話が残っている。
志木市にある宝幢寺には、馬を柳瀬川へ引きずり込もうとしていた河童を寺の住職が改心させた伝承があり、その他にも同市内の引又河岸の船頭が河童に相撲を仕掛けられたり、相撲で河童を負かした話が伝えられている。
所沢市北秋津にある持明院より南の淵に住んでいた河童がいたずらをし、住職に諭されて詫び証文を書いたという[198]。
東北地方
岩手県
遠野市の常堅寺の裏手の足洗川によどむカッパ淵は、よく河童が出現するという銘物スポットである[199]。
起源

河童が、中国の河伯信仰が大陸から渡来しておきたというのが一説ある。これは、柳田國男による、妖怪が神の零落したかたちというテーゼを(石田英一郎が河童に当てはめて[93])河童は水神がおちぶれたもの[4])としたところを起点とする。石田の『河童駒引考』では、さらに河童の牛馬引き(日本各地の伝承)のルーツに、水神に牛馬の供犠があったとみるが、日本ではその例をみつけることはむつかしいとしており、ユーラシア大陸の諸例を比較し[200]、中国では河伯を祀るのに牛馬を沈める慣習があることを対比させたものである[201]。
水神祭において河童を祀るのは、西日本に多い傾向があるとされ、高知県南国市下田の河伯神社では「エンコウ」と称して河童を祀る[202]。
また、水神祭の神の依り代として使われるヒトガタが、河童の形状の形成に影響したという考えも見られる[199]。
また、河童とはそもそも藁人形や
よって河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる[要出典]。
河神(川神)[注 30]と山神は、もとは神格で、その居場所を変えることで、川の神とも山の神ともなりえたという信仰が、そもそもあったとされ、これが地域によって、河童が、季節によって山と川を巡る伝承になったのだろう、とも考察される[115](具体例では川のヒョウスボがヤマワロになるが[115]、地域によって名称がさまざまなことは § 冬に山入りに上述した)。
遠野の赤河童は、間引きで殺された赤子の霊魂の成れの果てであるとしている[63]。
皿の起源
頭の皿について、民俗学者の折口信夫は『河童の話』(1930年)[182]の中で、田の神が笠をかぶっているとされるのが常であるが、ここから皿になったという一つの通説を説いている[182]。そして頭の皿が笠ならば、その甲羅も常世神の蓑を模したものである、と高崎正秀(1962年)に考察されている[204]。
ただ、折口の『河童の話』にあるじっさい考察というのは、かほどに単純直截な比喩でまとまっておらず、複数様々な伝承の連想になっている。まず折口は、河童の皿と椀貸しの伝承を比較。「椀貸し」とは、椀貸し淵や塚に書付で頼んでおくと椀が借りられるという伝承で、その淵や塚が竜宮につながっているとされる場合が多いので、本来は水神・河童伝承であろうとする[206]。次に、椀貸しは、ちゃんと数だけ返さないと、恩恵が受けられなくといういわば「椀数え」要素がある。これを皿などを数える童謡や、有名な皿屋敷の井戸の数える声と比較する。井戸というのは、昔、田の豊穣を祈って早乙女を泥に沈める風習(古来は、生贄だったろうなどと伝わるが[注 31]に着想し、皿数えの井戸も、女性を水神の生贄にした名残だとして、繫げてみせている。さらには「鉢かづき」の姫のように、器が頭の被りものになるおとぎ話があるが、皿を大きくすれば水神の笠ともなろうと述べ[注 32][182]、水神の笠が河童の頭の皿の原型でもあろうことを示唆している(上述、高橋のまとめによる)[204]。
高崎正秀は別の著書(1939年)でも、河童の皿の正体がなんであるかと問えば、それは鍋冠祭の鍋であり、椀貸し淵の椀である、と述べて折口説が説得に足りるという考えを示している[207]。
山猫型伝説
京極夏彦・多田克己の旧著(2000年)では、「山猫タイプ」をもうけており、そこでは対馬では河童のことを川虎とも
また両氏は、韓国語でも「川虎」を「カオーラ」と発音するとしており(じっさいはカホラン [가호랑] か?)[211]、伝承伝播(起源説)の可能性を示唆している[1][注 33]。
火車の混合
京極・多田共著の細分化においては「火車タイプ」ももうけているが[1]、「火車」とは江戸後期には猫型とされるようになった妖怪の一種であり、この火車(死体を盗みに来る)と河童(人をさらう)の混同については、すでに折口信夫なども着眼しているが、それより以前に南方熊楠が、紀州(和歌山県)で河童を「カシャンボ」と呼ぶのは、この火車の連想が影響しているからだという見解を示している[212]。
水虎と漢訳
江戸時代、河童に関する専門書の多くは「水虎」を漢語の異称としてもちいて発行されていた。すなわち中国伝承の「水虎」と河童を同定する意見があり、中国起源説に通ずるわけである。しかし、日本の河童(川太郎)はべつものとする『和漢三才図会』などの意見もあり、その推移を以下に説明する。
早くはすでに医師黒川道祐著の 『遠碧軒記』(1675年)でも水虎を「かは太郎」(カワタロウ)と定義した例がみえる[213]。
これに反して、『和漢三才図会』(1712年刊)は、中国の『本草綱目』にみえる「水虎」と、本邦の「かわたろう」(河童)とをはっきり区別し、別々の項として立項している[15]。しかしその少し後に出た『書言字考節用集』(1717年刊)では、『本草綱目』の内容を丸写ししたうえで、項目上は「
以後も、「水虎」をもちいて河童を説いた書物に『水虎考略』、『水虎説』、『水虎考略後編』、そして一枚刷りの『水虎十二品之図』など同系統の図譜(推移はあるものの、古いものから複写されて引き継がれたり足し増しされた異曲同工な内容の図入り解説書)が存在する[214][117][215](成立年代や内容については、以下 § 図像学参照)。
柳原紀光『閑窓自語』(寛政5–9/1793–1797年,)の「近江水虎語・肥前水虎語」の項目では表題に漢語をもちいたのみで、近江国(琵琶湖)で「かはら(かわら)」と呼ばれる化け物[注 34]、九州・肥前国より「かはたらう(かわたろう)」の伝承をつたえる[188]。他にも雑学者山崎美成『三養雑記』(1839年)[217]の例が散見できる。
上述したように( § 名称)今では東北地方や九州地方など各地で「スイコ」という名称で河童を指す例がみられる(青森県の「お水虎様」など)[35]。
なお、直海元周(直海龍)著の『広倭本草/広大和本草』(宝暦9/1759年刊)では、中国の
河童のミイラ
現在に伝わる河童の全身ミイラは、三体が現存するとされ(山口直樹調べ)、一つは佐賀県伊万里市の松浦一酒造の家伝、ひとつは東京を中心に活動していた見世物小屋が入手したもの、もうひとつは大阪の瑞龍寺 (大阪市)蔵のものである[219]。しかし、この他にも、栃木県益子町の妙伝寺にミイラが保管される[105][220][注 35][注 36]。
伊万里市山代町の松浦一酒造[注 37]の田尻家に伝わる河童全身のミイラは[224][225]、簡易鑑定によれば[注 38]、胸椎数が16で、ヒトやサル類(の12個)とは不一致で、哺乳類が材料とされたとしても、何の種類までは絞り込むのは困難という結果だった[226]。
見世物小屋のミイラは、所有者は、先輩興行師から譲り受けた目玉展示品(「マブネタ」)だと説明しており、元は奈良市あやめ池[注 39]に出没した河童で、馬や子供を襲うので村人たちに捕まり、手足を縛られたまま天日にさらされ、ミイラ化したといういわれであり、現地の寺に納められていたが、廃寺になり、太平洋戦争後、流出して興行師たちの手を転々としたので、つごう60年は興行に使われていたので消耗がある(現在は保全のため非公開)[227]。
江戸時代には、人魚や河童のミイラ造形師がいたことはわかっているが、その詳細は実像までは明らかになっていない、とされる[228]。
福岡県の北野天満宮には「河伯(かはく)の手」と呼ばれる河童の手のミイラがあり、901年に菅原道真が筑後川で暗殺されそうになった際、河童の大将が彼を救おうとして手を切り落とされた、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童の手を道真が切り落としたものとされる[229][230]。
未確認動物としての河童
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昭和以降の日本でも、河童らしきもの目撃談[231]や足跡が見つかった事件 [232]があり、実話怪談集やオカルト本に収録されることがある。ツチノコなどと並んで日本を代表する未確認生物として扱われることもある。未確認生物ではあるが、動物の集団の仲間に入れられることもある(十二支の竜と同様)。
古典的な目撃談や河童伝承のもとになる、なんらかの未確認動物が実在したのではないかという主張もある。この視点における河童は、人間や猿に似た哺乳類様の生物、両生類や爬虫類型の巨大な蛙のような生物と想定されており、どの種類も背丈は30センチメートルから150センチメートル程度であり、成人した人間を超えることはない。
昭和ごろの目撃例による爬虫類型の河童には皿や甲羅がない例が多く、宇宙人の典型的外形となったグレイと似る。このため、目撃者がグレイと誤認したのではないかとする例が『新耳袋』に掲載されている。アメリカ合衆国で目撃されたドーバーデーモンや蛙男、チュパカブラ、またアクア説の渚原人との類似が主張されることもある。
人間の尻小玉を抜いたり、牛馬を狂わせたりするといった行動については、未確認生物としての河童にはあまり結び付けられていない。茨城県牛久市では河童の目撃情報があり、警察が駆けつけると水銀を含んだ河童の足跡のような痕跡が残っていたとされる。
大衆文化
河童伝説のある地の地域おこしなどを担うマスコットキャラクターのみならず、水に関する企業のマスコット、河川・湖沼の水質汚染防止や環境保護の啓蒙を担う公共機関のマスコットなど、そのキャラクター性を様々に利用されている。また、水辺環境保全運動においては、河童が併せ持つ怖ろしさと愛嬌が巧く活かされている(以下、『水辺環境保全』節にて詳説する)。
漫画については1950年代の清水崑『かっぱ天国』等については上で触れた。
ちなみに『西遊記』に登場する沙悟浄は、日本ではしばしば河童に似た姿で描かれる。これは日本独自の翻案であり、原典においてはそのような設定はない(詳細は沙悟浄 § 日本の沙悟浄を参照)。
酒造元「黄桜」
酒造メーカー黄桜のイメージキャラクターは、初代カッパは清水崑が手掛けているが、のち二代目カッパは漫画家小島功によるもので[104]、昭和30/1955年よりテレビのCMで広く知られるようになった[159]。
水辺環境保全
水辺に危険が付きまとうのは今も昔も変わりない[233]。警戒心の乏しい子供にはとりわけ注意喚起すべきところで[233]、古来、龍神などの水神と妖怪・河童は水辺の危うさ怖ろしさの象徴でもあったが[233]、河童の場合、現代社会でも官民ともにそのイメージを巧く活かしている[233]。特に危険と思われる水域に看板などの形で設置される注意書きに妖怪キャラクター・河童として用いられることは極めて多く、日本各地で見ることができる[233][234][235]。埼玉県の見沼代用水を具体例として挙げる。
同じ目的であれば、先述のとおり、古くから畏れ敬われてきた龍神などの水神も考えられるが、河童のほうが断然親しみを持って受け入れられているということか[233]、昔とは違って現代のものに限ってはもっぱら河童ばかりが用いられている[233]。なお、水神は洪水・津波などといった社会全体が被害を受けるような自然災害に関して存在感が失われたとは言えず、大規模な環境保全意識ともなると、水辺で泳ぐものを流れに引きずり込んで死なせるばかりの河童では出る幕は全く無い。
河童連邦共和国
1988年(昭和63年)9月9日、日本国内と台湾の河童愛好家や、河童伝説が残る地域の自治体で組織し、「かっぱサミット」などを行っている[236][237]。
カッパ捕獲許可証
岩手県の遠野市観光協会では、カッパの捕獲を許可する「カッパ捕獲許可証」を発行している(2004年から一般販売[238])。5年以上の更新をすれば「ゴールド許可証」になり市内の施設で買い物の際に提示すると5%割引になる[239][240][241][242]。
河童にまつわる施設・地名
展示施設・建築物
- 大内かっぱハウス(千葉県銚子市) - 元銚子市長・大内恭平の個人コレクションなどを土日祝日に公開[243]。
- おもしろかっぱ館 - 長野県駒ケ根市天竜かっぱ広場[244]。
- JR九州田主丸駅駅舎(久大本線・福岡県久留米市)
- JR西日本弓削駅(岡山県久米郡久米南町) - 駅構内には町のマスコットキャラクターである河童(かっぱ)の「カッピー君」に纏わる様々なモニュメントが設置されている。
- 河童橋(長野県松本市) - 芥川龍之介の「河童」に登場。
- 領家かっぱ橋(埼玉県上尾市) - 上尾道路に架かる歩道橋。設置場所である領家地区の河童伝説に因む[245]。
- 河伯洞(福岡県北九州市若松区) - 河童を題材に好んだ小説家火野葦平の旧宅・記念館。
- キザクラカッパカントリー (京都府京都市伏見区) - 河童資料館が併設されている。
設備等
- 水木しげるロードの河童
- 福崎町の河童
-
- 兵庫県神崎郡福崎町のそこここには、河童を始めとする怖ろしげな妖怪が多数潜んでいる仕掛けになっている[246][247][248]。辻川山公園にいる河童の河太郎(ガタロウ)は頭のお皿が乾いて動けなくなり、溜池の畔で固まっている[246][247][248]。弟の河次郎(ガジロウ)と2匹の子河童は一定時間ごとに溜池から出没する[246][247][248](2021年現在は子河童は出現しなくなっている[249])。河次郎は福崎駅前の水槽にも出現する。町内には「妖怪ベンチ」が点在するが、福崎駅前の妖怪ベンチでは河童が一人将棋を打っている[246][247][248]。
- 同町出身の民俗学者・柳田國男の著書『故郷七十年』に登場する河童のガタロをモチーフに、地域振興課職員の小川知男によってデザインされた[250]。
- 海洋堂かっぱ館
- 志木市の河童
寺社
- 曹源寺(東京都台東区)- 「かっぱ寺」として知られる。河童大明神が祭られるほか[4]、河童の池、合羽川太郎の墓と伝わる石碑などがある。
- 雲八幡宮の「あ・うんの河童」(大分県中津市) - 平成2年に建立された、狛犬のように阿吽一対の河童像。
- 宝幢寺(埼玉県志木市)- 民話『和尚に助けられた河童』が伝えられている。
- 持明院(埼玉県所沢市)‐ 『曼荼羅淵の河童』の伝承が伝えられており、「秋津不動尊持明院 河童寺」を名乗っている[252]。
- 若宮神社「かっぱの狛犬」‐ 上述の愛媛の報恩譚。
地名
- カッパ淵(岩手県遠野市) - 河童伝承がある。上記の「捕獲許可証」も参照。
- 合羽橋(東京都台東区)- 由来には諸説あるが、河童をマスコットとする。
- 合羽坂(東京都新宿区)- 付近にあった蓮池のカワウソを河童と思い違えたことに由来するとされる。
その他
- 色麻町(宮城県) - 磯良神社では木彫りの河童をご神体としており「おかっぱ様」とも呼ばれる。またマスコットキャラクターに河童が設定されるなど観光資源としても利用されている[253]。
- 東京都 - 都民の日(10月1日)に都営施設へ無料で入れる「カッパバッジ」(大東京祭記念徽章)を1959年から[注 40]1997年まで販売していた[254][255]。江戸から東京への改称と東京府設置150年記念イベントの一環として、2018年に復刻している[255][256]。
- 牛久市コミュニティバス - 愛称が「かっぱ号」
河童にまつわる言葉
- 河童の川流れ
- 得意分野であるにもかかわらず失敗してしまうことを、水泳の得意な河童が川に溺れる様子に例えたもの[257]。
- 河童の木登り
- 苦手なこと、不得意なことをする例え。
- 河童に水練
- 泳ぎの上手な河童に泳ぎ方を指南することから、知り尽くしている人に教える愚かさを例えたもの[257]。
- 河童に塩を誂える
- 川に住んでいる河童に塩を頼むのはお門違いであることから、見当違いの注文をすることの例え[257]。
- 屁の河童
- いつも水の中にいる河童の屁には勢いがないことから、「取るに足りないこと」を「河童の屁」と呼ぶようになり、後に語順が変わった[257]。「木っ端の火」が語源という説もある[257]。
- 陸(おか)へ上がった河童
- 「河童は水中では能力を十分発揮できるが、陸に上がると力がなくなる」とされるところから、力のある者が環境が一変するとまったく無力になってしまうことの例え[258]。
- カッパ巻き
- 河童がキュウリを好むことから巻き寿司のキュウリ巻きをカッパ巻きと呼ぶ[259]。
- 河童忌
- 小説家芥川龍之介の忌日7月24日[260]。彼が好んで河童の絵を描いていたことや、死の直前の代表作『河童』にちなむ[260]。
- 河童の妙薬
- 河童が製法を教えたと伝承されている由来を持つ民間薬・家伝薬のこと。
- ガタロ
- 上方落語の演目『代書』『商売根問』などに登場する商売。川底を網でさらって得た鉄くずや貴金属などを換金して稼ぎを得る自営業を指し、その川さらいの姿が河童を連想させる事から商売の隠語として河童の関西名「河太郎」(がたろ)が当てられた。水泳が得意な人や、頭頂の毛髪が少ない人など、河童を連想させる人物のあだ名として使われることもある。
なお雨具の合羽(かっぱ)はポルトガル語の capa(カパ)に由来し河童とは無関係である。ただし河童を合羽と書くことはある[8]。
脚注
注釈
- ^ 江戸や仙台藩[14]。
- ^ 八代市の球磨川河口に所在する「河童渡来之碑」、通称「ガラッパ石」も参照[25]。八代市では「オレオレデーライタ川祭り」も開催されるが、河童の事をガラッパ、カワッパ、カワンタロなどと呼ぶ[23]、石碑は、後述の「九千坊(くせんぼう)」伝説とも結びつけられる。
- ^ 久留米ではカワトノ(川殿)とも[28]。
- ^ 旧仮名遣いで「ぐはたらう」「かだらう」
- ^ 赤松宗旦著『利根川図志』(1855年刊)巻一に「ネネコ」が図解されているが、中村禎里の考察だと“これが『河童聞合』の A 型図(ウ)の末期的変形であることは明瞭である”[51]。
- ^ 『河童聞合』原本の絵図は現存しないが、『水虎考略』にその模写図が転載される( § 図像学に詳述)。
- ^ また、漢字表記に「水蝹(すいいん)」という中国の妖怪名を充てており、写本によっては「
水蝹 ()」と記されている[53]。 - ^ 京極・多田 (2008)だと、現在像では“二、三歳くらいの児童の背丈”とあって乳児のようだとするが[59]、後述するように。『和漢三才図会』では十歳ばかり[15][60]、『物類称呼』では四、五歳ばかりの大きさである。
- ^ 「青黄色」の表現もあるが[62]、黄緑色とみなす。また、東北などでは赤系統だとする地域(遠野[52][63])もある[64]。
- ^ 『和漢三才図会』では短い髪だとする[15][60]。
- ^ また、相撲好きな性格も。
- ^ 『和漢三才図会』「水虎」(別項は 3, 4歳児の大きさだとする(これは中国の『本草綱目』から取られている)。
- ^ 合羽橋など、地名の由来となっている例もある。
- ^ 一般には「角力」は「すもう」とも読める。
- ^ 胃や腸などの内臓を意味するという説もある。
- ^ 紀州の呼称は「カシャンボ」とも表記される旨は § 火車の混合を参照。
- ^ 京極夏彦・多田克己の共著(2000年)では、タイプを細分化して、カテゴリが多く、「猿人タイプ」「火車タイプ」「山猫タイプ」「海獺タイプ」は別であったが[1]、2008年共著では、毛がある(獣系)、鱗系、爬虫両棲類学系にまとめ直したようである。
- ^ 京極夏彦・多田克己の分類システムでは「水虎形態」を、体が鱗でおおわれた大別タイプにあてているようであるが、じつは漢籍(『本草綱目』)で言う「水虎」は、部分的には体毛がある。従来解釈では、日本の文献(『和漢三才図会』)の図入りの解説をみてもわかるように「膝頭」のみが爪のついた虎の手のようである、とされてきた[15]。しかし新訳によれば、頭も膝も虎に似ているのだという[120]。
- ^ これは輪郭によってカエルや幼児の四肢のようなふくよかさがあるという事か。
- ^ 羽倉秘救(はくら・やすひら、1747–1808年)。
- ^ 広瀬氏第5代当主。
- ^ 『河童聞合』(聞き取りは1805年に実施)[134]には、聞き取った内容に沿った図画を「彩色」にて提出するように命じられていた[135]。
- ^ 河童に漢語の「水虎」を充てるようになった次第については § 水虎と漢訳を参照。
- ^ 微細な点であるが、『水虎説』(文政3/1820年頃)のほうが、『水虎考略』初期型よりも早いと中村は考察している[136]。
- ^ こちらの絵は、頭部中央に皿らしきがあって無毛だが、その周りは頭髪が生えているようにみえる。
- ^ ここで相撲を取ったが、相手の甚五郎が負けそうになると村民が「甚五郎は水天宮の申し子」とはやし立てると河童が逃げて行った
- ^ 上の佐賀県の伝承と同じく祭日にタケノコ。
- ^ 画家の小川芋銭は、生涯のほとんどを牛久沼のほとりで暮らした。
- ^ 「水戸浦」の地名は不詳であるが、報告から大洗町・旧那珂湊市(現・ひたちなか市)あたりの海域と思われる[193]。
- ^ 「河神」については、記紀にも言及がある。『日本書紀』仁徳天皇11年条〈西暦換算:323年条〉:「時天皇夢有神 誨之曰 武臟人強頸 河內人茨田連衫子 衫子 此云 於河伯 必獲塞 則覓二人而得之 因以禱於河神」など。
- ^ ただし、田植えに関する口碑では昔は生贄だったなどと伝えられるが、折口によれば史実的に生贄をおこなったのではなく、若い女性を選んで水の神の嫁というかたちで奉公させただけだと説いている。
- ^ 折口はこのほか、壱岐で採取した異種婚姻譚の例をあげる。 § 長崎県を参照。
- ^ ちなみに「鼈(すっぽん)タイプ」に関する考察では、「カオーラ」と「甲羅」が関係するようなことも匂わせている[1]。
- ^ § 滋賀県参照。
- ^ 他にも熊本県八代郡坂本村にも、かっぱのミイラを所持するが門外不出とする高齢女性がいるという[221]。
- ^ 明石市のミイラもあるというが[222]、これは頭部のみで山口は「河童の顔」としている。明石市立文化博物館蔵であるが、もとは島根県隠岐島で漁師の網に掛かった鯨の背骨の部分かもしれないと考察される[223]。
- ^ 地元では「河童の酒蔵」として有名。
- ^ 尚絅大学、藤井尚教教授による。
- ^ 菖蒲池駅が通る地区。
- ^ バッジ自体は1956年から販売。
出典
- ^ a b c d e f g 京極夏彦、多田克己編著「河童」『妖怪図巻』国書刊行会、2000年6月1日、146–148頁。ISBN 978-4-33-604187-6 。
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- ^ 古くは『甲子夜話』によれば、(おそらく肥前領内の)鴨取りから聞いた話として、水辺で魚介を捕るのだという[26]
- ^ 中村 (1995), p. 111.
- ^ 中村は“川魚持参”のこととするが[80]、話例では海魚のこともある
- ^ 曹源寺(以下参照)の周りの湿地の干拓を手伝ったという具体例[4]。
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- ^ 一例は広島県岩城郡〔ママ〕の老婆の話とするが、その地名はなく、愛媛県の岩城村が広島県因島市に隣接する[86]。
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- ^ 高崎正秀「皿屋敷説話の研究(一)―宇津保物語俊蔭成立論への前提―」『文学』第7巻第9号、岩波書店、1939年9月、28頁、NDLJP:3365320。「河童は今では、しがない水中のあやかしに過ぎないが、嘗てそれは農村の富を左右する水霊であり、その戴く皿の中に其の霊力を秘めててゐると信ぜられてゐた(『古代研究』、「河童の話」)。それが朱面の童子と考へられた点は、福神猩々なども同じこと、又一の常世の稀人神の姿であつた。然らば其の皿は何か。 こゝで私の眼交を橫ぎるものが二つある。一つは有名な鍋冠祭の鍋と、諸國に停へられる椀貸も同じこと、又一の常世の稀人神の姿であつた。」 高崎正秀著作集, 第 5 巻、桜楓社、1971年、297頁。
- ^ 金素雲『精解韓日辞典』、高麗書林、 (1992) [1968] 引き "가"(カ、ga)、 ①ふち、へり、きわ、端. side, verge。複合語例として: 강가 川辺 とある。 1頁左列。
- ^ 金素雲『精解韓日辞典』、高麗書林、 (1992) [1968] 引き"강" [江] (カン、gang)、 ①大河、おおきな川。31頁右列。
- ^ 金素雲『精解韓日辞典』、高麗書林、 (1992) [1968] 引き "호랑" [虎狼] (ホラン) ころう①とらとおおかみ 。。999頁左列。 また、 "호랑이"(ホランイ)虎(범 [ポム、beom)) の恐ろしさを強調した名称
- ^ 接頭部の「カ」だとして、どの語を充てるか不詳である。韓国語で「可」は「カ」だが「河」は「ハ」である。「カ」(가) には「へり、ふち」の意味の語もあるが、「カン」(가、江)との複合語の「カンカ」(강가)には「川辺」の意味がある[208][209]。 ホラン(호랑、虎狼)は文字通りの意味で、これに派生したホランイ(호랑이 が「虎」の猛威を強調した語である[210]。
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- ^ この夏は「カッパ捕獲許可証」を手に入れてカッパを探す旅に出よう!
- ^ 写真入りカッパ捕獲許可証ゴールドのお客様へ
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- 山口直樹 編「第2章 河童」『決定版妖怪ミイラ完全FILE』学研パブリッシング、2010年。 ISBN 9784054044517 。
- 柳田國男『妖怪談義』講談社〈講談社学術文庫〉、1977年(原著1956年)。 ISBN 978-4-06-158135-7。
関連項目
外部リンク
- 黄桜記念館 Kappa Gallery - CMキャラクターに使用している黄桜公式ホームページより
- カッパ伝説 - 八代市公式ホームページ
<旅の人>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:13 UTC 版)
大昔よりいろいろな場所を放浪する人々。彼らの訪問時にはまず<先駆け>と呼ばれる集団が空から凧を使って来ることになっており、訪問時には物語・音楽・踊りが披露される。リンでは彼らを「無用者」と呼び信用しない人々もいる(食物がなくなることがあったり、定住せず遊んでいる人々と見なされたりすることなどが原因)。視覚と聴覚が鋭く、普通の人には聞こえない高い音の笛で連絡を取り合う。一方で泳げず、寒さには弱い。そのため冬は海岸沿いに避難する。アンリンの魔界や<禁じられた山>に入ることはタブーとされている。 ジール 語り部オグデンの養女であり、<先駆け>のリーダー。実はゼバック国の生まれであり、海岸に流れ着いた捨て子であった(シエリーの推測では、ゼバック国の平民であった親が国外脱出しようとしたのではないかとされている。)。そのため、寒さにも強く、<旅の人>にはタブーとされている場所でも行くことができる。 2巻の黄金の谷への冒険、4巻のゼバック国侵入、5巻の<禁じられた山>への冒険ではいずれもローワンと一緒に旅をした。 オグデン <旅の人>の長で語り部。黄金の谷の話などを聞かせている。人の考えを見透かすような目をしており、洞察力に長けているため、ローワンからもただ者ではないと思われている模様。 トール、ミズレン <先駆け>の少年たち。 フォーリー アランの父親。茶色の目をした歌手で、リンの教師であったサラと恋に落ちて結婚しアランを授かるが、<平原の戦>で戦死してしまう。
※この「<旅の人>」の解説は、「リンの谷のローワン」の解説の一部です。
「<旅の人>」を含む「リンの谷のローワン」の記事については、「リンの谷のローワン」の概要を参照ください。
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