コレクターとして
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「アーマンド・ハマー」の記事における「コレクターとして」の解説
美術品収集家として印象派とポスト印象派絵画のコレクションも世界的に知られており、ソ連との貿易をしていたころより本格的に収集を始め、主にロマノフ王朝時代のロシアをはじめとするヨーロッパの絵画や彫刻などを収集する。その傍ら、1930年代にはニューヨーク州マンハッタンに画廊をオープンするなど、趣味と実益を兼ねたビジネスを行っていた。また、後にオクシデンタル・ペトロリウムの本社があるカリフォルニア州ロサンゼルスにハマー美術館(英語版)を設立、主要な収蔵品を寄付してコレクションを拡充し、やがてUCLAに寄進している。 一時期はレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿の1つ「レスター手稿」を所有しており、『ハマー手稿』と改名した。死後は美術館で管理されていたが、相続人が起こした訴訟によって美術館に資金不足が生じ売却された。購入したのはビル・ゲイツである。
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コレクターとして
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「松方コレクション」も参照 川崎造船所社長として隆盛を誇った第一次世界大戦期に、日本における本格的な西洋美術館の創設を目指しヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵は松方コレクションの名で知られ、その一部は国立西洋美術館の母体となった。 第一次世界大戦中の1916年(大正5年)、戦火の中で渡英した幸次郎はフランク・ブラングィンの戦意高揚ポスターに感銘を受ける。幸次郎は本業の激務の合い間を縫ってブラングィンを訪れ、二人はたちまち意気投合した。日本における本格的な西洋美術館の創設という幸次郎の壮大な悲願はブラングィンとの交流の中で芽生えた。西洋美術館の設立計画はかなり具体化しており、幸次郎は東京・麻布の仙台坂に美術館建設用地を確保していた。ブラングィンは幸次郎の計画をもとに石膏製の建築模型を作っており、設立予定の美術館の「共楽美術館」という名前まで決められていた。共楽美術館の名前にはコレクションを秘蔵せず、国民が等しく美術作品を楽しめるようにとの幸次郎の思いが込められていた。 第一次世界大戦後も幸次郎はヨーロッパに渡り、パリを中心にロダン、ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホらの作品を次々に購入し美術品収集を続けた。なお、この時期は幸次郎が展開した川崎造船所の積極経営策に陰りが見え始めた時期と一致する。印象派の巨匠・クロード・モネを度々訪れ交流を深め、大量にモネの作品を購入している。幸次郎はモネの画家人生の集大成と評される「睡蓮、柳の反映」をモネ本人から直接購入している。 1916年(大正5年)から約10年間、幸次郎はたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、絵画、彫刻から家具やタペストリーまで、膨大な数の美術品を買い集めた。現在は東京国立博物館が所蔵するパリの宝石商アンリ・ヴェヴェールから買い受けた約8,000点の浮世絵を含め、作品総数は1万点におよぶと言われている。しかし、先述の川崎造船所の破綻によってコレクションは売り立てられ国内外に散逸。作品の一部はロンドンの倉庫火災で焼失し、第二次世界大戦末期にはフランス政府に敵国人財産として取り上げられる運命を辿ることになる。国立西洋美術館は、1959年にフランス政府から寄贈(第二次世界大戦での対立の過去を背景に「返還」の形式は取られていない)された松方コレクションの受け入れ機関として東京・上野に設立された。間接的にではあるが、日本における本格的な西洋美術館の創設という幸次郎の壮大な悲願は、多くの悲劇や惨禍を乗り越え、紆余曲折を経て達成されたと言える。
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コレクターとして
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物集めが子供の頃から好きで、牛乳瓶の蓋やめんこ(べったん)などを集めていた。 今では上方演芸の資料全般(音頭、漫才、落語、浪花節、講談など)を集め、書籍、CD、DVD、レコードや自身が紹介された雑誌、新聞記事のスクラップなど幅広い。楽屋に貼ってある出番表などの貼り紙も日常の資料として残している。「さてはトコトン菊水丸」を放送していた時期には、閉鎖直前の毎日放送千里丘放送センターから、貴重な放送音源やレコードを次々と発掘。同番組や「お宝ハンター菊水丸」という特別番組で、数回にわたって放送した。 飲みかけの清涼飲料水のペットボトル、噛んで味が無くなったガムなど、漫画家のやくみつると同様に、有名人が使用した変わった物を収集することも趣味としていた。サダム・フセイン・イラク元大統領からもらったとされる壷、エリツィン・ロシア元大統領からもらった目覚まし時計(但し時間が来ても鳴らない。なぜなればロシアンタイムだから)もその中に含まれる。2008年のくいだおれ閉店直前に、名物の人形(くいだおれ太郎・次郎の人形)の扱いが話題になった際には、一番に人形の買い取り先候補に名乗りを挙げている。しかし、買い取りは実現しなかった。 なんば花月の閉館直後には、同劇場で使われていためくり(出演芸人の名が記された大きな札、島田紳助・松本竜介だけは長原成樹の元相方が持ち帰った)の大半を、劇場側の許可を得たうえで自身の分も含めて運び出した。このめくりについては、芸人による落書きが裏面に残っていることから、現在では演芸関係の資料として高い評価を受けている。「さんまのまんま」でも、明石家さんまの劇場出演当時のめくりを披露した。また、映画「少年河内音頭取り物語」(前述)の撮影を依頼した田中徳三の逝去後には、遺族から過去の作品の脚本を譲り受けた。 芸能界でも有数の、1970年に大阪・千里丘陵で開催された日本万国博覧会(大阪万博)の関連グッズのコレクターでもある。大阪万博の包装紙、記念切符、ソノシート等々を保有している。 2007年4月には、大阪・日本橋の商業施設「おたくの殿堂」(2008年5月に閉店)内に、自身のコレクションの一部を展示する「河内家菊水丸の総額1億円 あっと驚く秘宝館」を期間限定でオープン。「札束を隠している」という噂やネタの元になった太鼓や、前述のめくりも飾られた。ただし、めくりの一部については、落書きの内容が過激なため裏面を公開しなかった。また、2008年には、不祥事で一時閉店していた船場吉兆の営業再開日に同店を訪問。居並ぶ報道陣を前に、「おいしかったですよ」と料理の感想を述べた。
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