日系人部隊
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真珠湾攻撃の1ヶ月前にあたる1941年11月、サンフランシスコ・プレシディオ(英語版)のクリッシー陸軍飛行場(英語版)内にて第4軍情報学校(Fourth Army Intelligence School)が設置され、まもなくMIS語学学校(MIS language school, MISLS)と改称された。MISLSの校長は日系将校ジョン・F・アイソで、その他に日系人インストラクターであるアーサー・カネコ、シゲヤ・キハラ、アキラ・オーシダ、テツオ・イマガワの4名と、60名の生徒(うち58名は日系人、2名は日本居住経験のある白人)が所属した。1942年5月には最初のMISLS卒業生がアリューシャン列島や南太平洋の戦地に派遣されている。同年5月25日、軍事地域から全ての日系人を排除する旨の命令により、MISLSはミネソタ州キャンプ・サベージ(英語版)へ移動し、1944年8月には同州のフォート・スネリング(英語版)への移転に伴いその規模が拡大された。MISLSは終戦までに約6,000人の卒業生を輩出し、そのうち85%が日系人だった。MISに所属した日系将兵の多くは帰米2世(日系2世のうち、日本で教育を受けた後にアメリカへ移った者)であった。 MISLSの授業では、日本語の読み書き・会話・翻訳・通訳・草書の読み方や捕虜尋問、『作戦要務令』や『応用戦術』を使っての軍隊用語、日本の地理・歴史・文化といった、前線の日本兵から入手した手紙・日記・地図等の押収文書の翻訳や、日本兵捕虜の尋問の為に必要な基礎知識となる広範囲な科目を、6か月という短期間で集中して教え込まれた。日本語と英語のどちらかが不十分な生徒は、その訓練期間を9か月~1年に延長された。1週間の授業時間も、平日は9時間、土曜も4時間という極めてハードなスケジュールが組まれていただけではなく、膨大な量の宿題も出され、消灯時間を過ぎても明かりを求めて、トイレで勉強する学生も少なくなかったという。 オーストラリアのブリスベーン郊外にある連合国軍翻訳通訳部(英語版)に配属されたMIS隊員は、海軍乙事件の際には、現地の抗日ゲリラが福留繁から奪い取った新Z号作戦計画書の解読並びに翻訳に尽力した。 他にも、大戦末期の沖縄戦では少なくとも日系人通訳兵(非MIS隊員)が170人、語学兵(MIS隊員)が152人派遣されていたことが判明している。沖縄戦では、防衛プランや軍隊の位置を示した文書、砲兵隊の位置を示した地図などの日本語文書を翻訳したことや、沖縄方言で投降を呼びかけたりしたことによって、沖縄戦の短縮に貢献し、MISが派遣されていなければ更に犠牲者が増えていたと言われている。一方、軍政府内の住民用尋問室では、日系人通訳による暴力的な尋問が行われることがあった。また、沖縄戦と進駐軍MIS隊員のなかには、「米軍が今もっとも必要とする人間」として認められた現実に満足して、日本人を見下す者もいた。当時の日本政府機関や民間の団体が、何らかの許可申請や陳情を行うのには、まずこの窓口にいる日系2世の担当官に媚を売る必要があった。 任務の性質からMISの存在は戦中戦後を通して長らく極秘扱いとされ、元隊員らも日本側から「裏切り者」と非難されることを恐れて経歴を明かそうとしない者が多かった。MISの存在がアメリカ国内で公に知られるようになったのは、1972年にニクソン大統領(当時)が第二次世界大戦期の軍事情報の機密扱いを解除する大統領命令11652号を発令してからのことだった。1980年5月9日には、MISLSの後身にあたるカリフォルニア州モントレーにあるアメリカ国防総省外国語学校(DLI)の3つの建物に、第二次世界大戦で戦死した日系人兵士であるフランク・タダカズ・ハチヤ、ユキタカ・“テリー”・ミズタリ、ジョージ・イチロー・ナカムラらの名前が冠せられた。 戦後55年経った2000年4月、部隊に対して授与されるものとしては最高級の栄典となる大統領殊勲部隊章(英語版)がMISに贈られた。2010年10月、アメリカ合衆国議会(第111議会)にて日系人部隊(MIS、442連隊、100大隊)への議会名誉黄金勲章授与に関する法案が承認された。授与式典は2011年11月に催された。 第二次世界大戦における日系2世将兵に贈られた議会名誉黄金勲章(裏)
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