日系人部隊の編制
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「第442連隊戦闘団」の記事における「日系人部隊の編制」の解説
強制収容所に収監される母親を手伝う日系人兵士(1942年5月11日) アメリカ軍兵士の監視の下、強制収容所に連行される日系アメリカ人(1942年4月5日) 行進する第442連隊戦闘団の兵士(1944年、フランス) 1941年12月の真珠湾攻撃に伴い、アメリカ合衆国は日本に対して宣戦を布告した。その後アメリカ軍は緒戦で敗退を続けた上に、日本海軍の潜水艦によるアメリカ本土砲撃や、艦載機によるアメリカ本土空襲が行われたこともあり、アメリカ政府及び軍は日本軍のハワイ侵攻及び本土進攻が近い内に行われると予想し、その対策を進めていた。 その際にアメリカ政府は、アメリカ国内の日系人社会の動向を、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)不安視していたことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。 なお、ハワイ準州(Territory of Hawaii)居住の日系人については、全体の人口に対して、その率が島によっては人口の半分程度とあまりにも多く、生活や経済が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、当局は日系人社会に対して影響力が高いとみられた日系人会幹部や僧侶ら数百人をホノルルのサンド・アイランドの収容所に収容、後に人数は数千人に増え、オアフ島のホノウリウリ抑留キャンプをはじめ、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島(一部は本土)の数か所に強制収容したものの、全日系人が対象とはならなかった。なお、例外的な例ではあるが、本土にも強制収容に抵抗して日系人住人を守った自治体があった。 第二次世界大戦の戦争目的として、日本は「(その殆どが欧米諸国の植民地にされている)アジアの白人支配からの打倒」を謳い、アメリカでの日系人の強制収容を「白人の横暴の実例」として宣伝していた。アメリカはそれに反駁する必要に迫られ、日系人の部隊を編制することになった。また、高い士気を持った第100歩兵大隊が、軍事訓練においてひときわ優秀な成績をあげたこともこれを後押しした。 1942年6月に、在ハワイの日系二世の陸軍将兵約1,400名は「ハワイ緊急大隊」に編成され、ウィスコンシン州に送られた。同地のキャンプ・マッコイで部隊は再編され、第100歩兵大隊(100th infantry battalion)と命名される。大隊長以下3人の幹部は白人だったが、その他の士官と兵員は日系人で占められていた。ここで部隊は訓練を重ね、1943年1月にはミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに移駐する。これ以前にも、既に3,500人の日系人がアメリカ軍でさまざまな任務に当たっていた。 1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められた。部隊名は第442連隊であるが、歩兵連隊である第442連隊を中核に砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなった。ハワイからは以前から大学勝利奉仕団で活躍していた者を含む2,686人、アメリカ本土の強制収容所からは1,500人の日系志願兵が入隊した。本土の強制収容所からの入隊者が少ないのは、各強制収容所内における親日派・親米派の対立や境遇が影響していたが、ハワイでは事情が異なり、募集定員1,500人の6倍以上が志願したため、定員が1,000人増やされた。なお、徴兵年齢(18-39歳の男性)の日系人人口は、ハワイで23,000人強、本土では25,000人程度で大差はなかった。 編成当初、背景事情の違いから本土出身者とハワイ出身者の対立は深刻で、ハワイ出身者は本土出身者を「コトンク(空っぽ頭)」、自分たちを「ブッダヘッド(釈迦の頭、つまり刈上げ髪を揶揄した言葉)」と呼んで互いに反目し合い、第100歩兵大隊の兵士も加わった暴力沙汰も発生した。 そこで上層部は、双方の対立を解消すべくハワイ出身者に本土の強制収容所を見学させることとした。そして彼らは有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の現状を目の当たりにして、如何に本土出身者が辛い状況に置かれているかを知り、対立は解消されることとなった。 なお、日系人部隊のモットー「Go for broke!」(「当たって砕けろ!」の他、「死力を尽くせ!」、「撃ちてし止まん」、「一か八かだ」といった意味合い)」は、元来はハワイ・クレオール英語でギャンブルで有り金すべてをつぎ込むことを意味する。当時のハワイには日本以外にもフィリピンや中国などアジアからの移民が多く、仕事場となったサトウキビのプランテーションでは賭博が盛んに行われていたが、移民同士は現地のハワイ語や英語を組み合わせたピジン英語で会話していた。日系人部隊の活躍が知られるようになったこともあり、現代では元の『有り金をつぎ込む』の他にも『当たって砕けろ』という日系人部隊に由来する意味も辞書に載るようになった。
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