義号作戦とは? わかりやすく解説

義号作戦

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義号作戦(ぎごうさくせん)とは






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義号作戦

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薫空挺隊」の記事における「義号作戦」の解説

第4航空軍は、艦船対す特別攻撃のほかに、台湾高砂族出身者いわゆる高砂義勇兵や、高千穂空挺部隊挺進第3・第4連隊)を輸送機により、敵飛行場降下させる空挺特攻作戦行った多号作戦レイテ島から出撃する連合軍機によって妨害されており、第4航空軍司令官富永恭次中将爆撃機戦闘機による飛行場攻撃繰り返していたが、連合軍機は弱体化するどころか強化される一方であり、航空機による飛行場攻撃限界感じて大本営から派遣されてきた参謀本部作戦課長服部卓四郎協議の上空挺特攻作戦地上軍連携により飛行場徹底的に叩く作戦立案した第14方面軍司令官山下奉文大将は、苦戦中のレイテ島大規模な攻勢には消極であったが、地上部隊補給路を確立するためと熱く説く富永に対して地上軍応えないわけにもいかず、また、レイテ島飛行場破壊は、フィリピン防衛有意義だとも考えて富永作戦承認した攻撃目標レイテ島内の飛行場群と決まり、まずは11月26日にブラウエン方面飛行場破壊工作に、ジャングルでの遊撃戦専門特殊部隊として訓練されていた高砂義勇兵主力とする薫空挺隊投入されることとなった地上軍援護がない中で、輸送機連合軍飛行場強行着陸し、空挺特攻隊員飛行場破壊工作を行うというこの作戦は、無事に帰還できる望みのない特攻作戦等しいものであり、作戦主導してきた富永はわざわざ薫空挺隊出撃予定リパ飛行場訪れて隊長中重中尉以下40名を激励している。富永は「諸君会ったことを誇りに思うと言いながら、隊員ひとりひとり固い握手交わしたのち「ただいま信頼する諸君らの顔を見て軍司令官感慨無量である。諸君見てこの壮挙成功疑いなきを信ずる」と訓示飛ばしたが、「攻撃定められた日に必ずやねばならぬことはない。天候その他の状況により、自由な立場から判断して実施せよ」と臨機応変作戦行動をとって構わないので、無駄死にをすることはなく、なるべく生き延びて1機でも多く敵機破壊してほしいという指示行っている。この富永指示送り出す第4航空軍司令部全員祈りでもあった。しかし、飛行208戦隊零式輸送機4機に分乗して出撃した薫空挺隊は、1機も連合軍飛行場到達することはできず、4機のうち1機は故障日本軍勢力下のバレンシア飛行場不時着し空挺隊員第26師団合流残り3機の消息不明最初空挺特攻作戦失敗終わった2回目作戦はより大規模となり、ブラウエン北飛行場204名、ブラウエン南飛行場72名、サンパブロ飛行場36名、ドラッグ飛行場104名、タクロバン飛行場44名の合計450名の空挺隊員空挺降下させるか、輸送機飛行場まで空挺隊員輸送し胴体着陸して、降下した空挺特攻隊員飛行場制圧し地上航空機撃破し、のちに地上部隊進撃してきて、空挺特攻隊が制圧した飛行場占領する計画であった第4航空軍による空挺作戦が「テ号作戦」、それに呼応する第14方面軍地上作戦が「和号作戦」と名付けられた。富永は「テ号作戦」に残存戦力全力投入決め一式戦闘機「隼」30機に護衛され一〇〇式輸送機30機、九七式重爆撃機17機、その他の機体含めると100機もの大編隊がレイテ島の各飛行場向けて出撃した。そして、輸送機搭乗している空挺隊員一〇〇式機関短銃装備しているなど、日本軍としてはかなりの重装備精鋭部隊であった12月6日に「テ号作戦」は決行され、各飛行場への空挺降下強行着陸はかられた。激し対空砲火次々と輸送機撃墜され、うち、ドラッグタクロバン突入した14機は全機帰還となっている。偵察機による報告では両飛行場への突入成功したとのことであったが、アメリカ軍記録では、タクロバンでは2機の日本軍輸送機強行着陸はかったが、1機が撃墜され、もう1機は着陸直前地上激突した地上激突した日本軍輸送機一〇〇式重爆撃機)に搭乗していた8名の空挺隊員と3名の搭乗員全員戦死したが、輸送機激突生じた火災滑走路上のアメリカ軍機に引火し、6機が爆発炎上し5機が損傷したドラッグ近辺では第8軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将が、小雨のなかポンチョ着て野外上映されている映画見ていたときに、敵味方不明輸送機がその上空を旋回し出したアイケルバーガーらが訝しがって空を見上げていると、その後飛んできたアメリカ軍戦闘機追い払われ、その機が敵機であったことをアイケルバーガーらは初め認識し肝を冷やしたが、このように富永立案奇襲成功しレイテ島攻略部隊連合軍最高指揮官があわや戦死という状況にまで至らさせていた。ドラッグ飛行場では第11空挺師団英語版)の師団長ジョセフ・スウィング(英語版少将下着姿でくつろいでいたが、そこに1機の日本軍輸送機強行着陸したちまち激戦始まった日本軍空挺兵混乱増長させるため、ベルならしたり笛や口笛吹いたりと大きい音を出したが、アメリカ軍戦闘員の他に庶務係や炊事兵まで戦闘参加して多く死傷者出しながらも降下してきた日本軍空挺部隊殲滅した。 次いで、ブラウエン北飛行場、ブラウエン南飛行場サンパブロ飛行場合計26機の輸送機突入したが、降下成功したのはブラウエン北飛行場サンパブロ飛行場であった突入した輸送機のうち20機は生還できたが、全機激し対空砲火多数被弾していた。ブラウエン北飛行場付近に降下した第3挺進連隊白井連隊長率い60名の部隊飛行場突入すると、駐留していたアメリカ軍兵士混乱して武器置いたまま逃走したので、空挺部隊指揮所を占領して飛行場設備破壊しアメリカ軍の兵器多数鹵獲した。サンパブロ飛行場にはパイロット含めて34名のアメリカ兵がいたが、飛行場の裏手の森林地帯降下した空挺隊員は、手持ち小火器激しく抵抗してきたアメリカ兵巧み戦闘圧倒アメリカ兵戦死者残して飛行場から退却したが、生き残っていたのはわずか12であった日本軍アメリカ軍抵抗制して飛行場占領し飛行場設備と、C-45 エクスペディター1機、L-5 センチネル5機、その他14機の航空機地上撃破した戦果はただちに富永無電報告された。自らが主導した作戦成功したが、各基地に最低100機の航空機があると見積もっていたので、予想外少な戦果富永は不満を抱いている。実は、ブラウエンの飛行場群は平年より多いレイテ島泥濘となり、使用しにくかったため、実質放棄されて、比較地盤安定している海岸付近に新し飛行場の建設進んでおり、連合軍は、ブラウエン方面には殆ど作戦機置いていなかった。日本軍はこのことに気がつかず、実効少な作戦強行したとなった。それでも空挺部隊戦車伴って逆襲してきたアメリカ軍11空挺師団激しく戦い数日間渡って飛行場確保するという目覚ましい戦績を残すが、第14方面軍の「和号作戦」はこの直後開始され連合軍によるオルモック湾の上作戦中止余儀なくされ、空挺作戦一定の成果はあったものの失敗終わった。この空挺作戦九死に一生得たアイケルバーガー戦後長い間、このときの体験鮮明に記憶しており、「作戦軍事的重要性は持たなかったが、しかし、よりよい幸運に恵まれていたら、あの攻撃軍事的重要性持ったかもしれなかった」と富永作戦評している。

※この「義号作戦」の解説は、「薫空挺隊」の解説の一部です。
「義号作戦」を含む「薫空挺隊」の記事については、「薫空挺隊」の概要を参照ください。

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