義烈空挺隊玉砕之地碑
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「読谷補助飛行場」の記事における「義烈空挺隊玉砕之地碑」の解説
義烈空挺隊は敵の基地に強行着陸して敵の飛行機を破壊、搭乗員を殺傷する目的で1944(昭和19)年12月に編成された帝国陸軍の部隊である。米軍の沖縄進攻が進んでいた1945(昭和20)年5月上旬に計画された義号作戦では、熊本から低空で深夜の沖縄に進入、8機を沖縄北飛行場に、4機を沖縄中飛行場に強行着陸させ、着陸後搭乗員は敵機や軍需品、施設を爆破して飛行場機能を妨害するものとした。 1945年5月24日夕方、奥山道郎隊長以下武装兵120名が九七式重爆撃機に分乗して熊本を出発。4機が引き返し、7機が撃墜されたものの、少なくとも1機が突入に成功、破壊活動を展開した。これによって米軍は航空機9機破壊炎上、29機が損傷、7万ガロンの燃料を炎上、死傷者約20名を出し、飛行場は翌日まで使用できなかった。建立時期は不明ながら、飛行場内に木製の碑が建てられた。読谷村役場向かいの畑地にあったが、現在は掩体壕の隣に移設されている。
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