義烈団時代
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1920年、北京へ行き、義烈団に入団。この当時の朝鮮独立運動家の間では、ロシアで根強かった革命思想としてのニヒリズムが流行っていて、義烈団も思想的にはその傾向が強かったが、団員がテロリズムに邁進することを、はっきりとめざした組織だった。しかし、義烈団が企てたテロは、全部失敗している。 呉成崙が最初に参加したテロは、鴨緑江鉄橋爆破計画だったといわれるが、事前に察知されて失敗。逮捕は免れた。 1921年、上海に移り、大韓民国臨時政府に期待したが、初代大統領・李承晩が独断で、国際連盟による朝鮮の委任統治をアメリカに請願していたことに憤激。金元鳳、申采浩などとともに「李承晩声討文」に署名した。 1922年3月28日、金益相、李鐘岩 とともに、上海に立ち寄った田中義一の暗殺を企てる。主犯格の呉成崙は、田中が上海バンドに着岸した船から上陸するところを狙撃した。銃弾は、田中にはあたらず、田中のそばにいたアメリカ人女性スナイダー夫人に命中して、結局、夫人は死亡した。現場から逃走した呉成崙は、追ってきたイギリス人警官に傷を負わせたが、捕まって、日本領事館に引き渡された。しかし、同囚の日本人の助けを得て、領事館の留置所から脱出。日本領事館は500ドルの懸賞金をかけて捜索したが、捕まらなかった。 この暗殺未遂事件は、『アリランの歌』に印象的に描かれているが、共著者で主人公のキム・サン(張志楽)は、呉の脱獄を題材にして『奇妙な武器』という短編小説も書き残している。
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