義満以後とは? わかりやすく解説

義満以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 15:50 UTC 版)

日本国王」の記事における「義満以後」の解説

義満以来室町幕府内でも異朝臣従する姿勢批判的な意見が根強かった義満死後4代将軍となった足利義持は明と断交するが、6代将軍足利義教が明との国交再開国王号復活したこれに伴い朝鮮からの来書にも将軍日本国王称したが、日本側では、「日本国源某」の称号用いた。なお、この時「日本国王」という称号巡って議論があり、満済管領細川持之通じて将軍日本覇王であり、国王称号用いて誰に憚るところがあるのか」と進言したと記している(『満済准后日記永享6年6月15日条)。幕府討議結果、「只今鹿苑院殿御沙汰改めらるるの条々一向彼の御非虚を異朝仰せ顕わせらるるに相当たるべきか。(もし今鹿苑院殿義満)の先例改めるようなことをすれば、彼の虚偽外国言い出すようなものではないか)」として、日本国王号採用した。しかし、一方で将軍明皇帝勅書を受ける際に将軍拝礼することが問題になった交渉結果拝礼の儀を簡略化することで合意成立したこの際満済当初反対していたが、賛成に回るにあたって本当日本国王拝礼することは神慮に背くことになるが、将軍は明側が思っているだけの日本国王なので、拝礼差し支えない」と回答している。 7代足利義勝以後将軍が明の冊封受けた事実確認できない。だが、宝徳3年1451年)に8代将軍足利義成(後の義政)が明の景泰帝使節派遣した時の上表文および景泰帝からの勅諭用いられている義成称号は「日本国王」であり、明側においても実際冊封有無問わず武家政権の長である義成義政)を国王として認識していたことが分かる。なお、義政家督息子義尚譲った後も、祖父義満倣って日本国准三后道慶」と署名した書状朝鮮に送る(『善隣国宝記所収文明18年朝鮮書及び『蔭涼軒日録文明18年7月2・11日条)など、外交においては主導的な立場保持し続け、「日本国王」の地位終生手放すことはなかった。その後足利将軍は明や朝鮮では「日本国王」と認識されていたが、細川氏大内氏宗氏などが実際外交実権握った日本国王の上表文偽造され場合もあった。義満金印戦乱により消失したため代用品として木印用いられた。大寧寺の変の後に大内義長により作られ木印毛利元就の手にわたり毛利博物館所蔵されている。なお、大内義長毛利元就木印保有者として日明交易再開求めた簒奪者として朝貢認められなかった。 日明関係1547年天文16年)の遣明船断絶したが、1581年天正9年)と1583(天正11年)に朝鮮国王日本送った国書宛先の「日本国王」とは室町幕府15代将軍足義昭であった

※この「義満以後」の解説は、「日本国王」の解説の一部です。
「義満以後」を含む「日本国王」の記事については、「日本国王」の概要を参照ください。

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