義渠の王を誘殺す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 08:08 UTC 版)
義渠は東周時代に涇河北部から河套地域にかけて活躍した古代民族の一支族である。春秋戦国時代においてその勢力は一少数民族ながら強勢であり、秦や魏と争えるだけの力を持っていた。 恵文君7年(紀元前331年)に義渠国内で内乱が発生し、恵文王は庶長の操を派遣してこの内乱を平定させた。 恵文君11年(紀元前327年)、恵文王は義渠に県を置き、義渠王は秦の臣となった。 恵文王6年(紀元前319年)、秦は義渠を攻撃し郁郅(現在の甘粛省慶陽市の東)を奪取した。義渠は報復のため翌年公孫衍が組織した楚・韓・趙・魏・燕の合従軍に与して秦を攻撃した(函谷関の戦い)。義渠は合従軍の動きに便乗し、李帛(現在の甘粛省天水市の東)で秦軍を破った。 恵文王11年(紀元前314年)、恵文王は再度軍を派遣して義渠を攻撃し、徒涇(現在の山西省と陝西省の間の黄河南部の西辺り)を攻め二十五の城を奪って義渠の力を大きく削いだがそれでも義渠は一定の勢力を保った。 昭襄王元年(紀元前306年)、昭襄王が王位についた際、義渠の戎王が祝賀のため来朝した。宣太后はこの時戎王と私通し2人の子を儲けた。昭襄王は宣太后と義渠を滅ぼすための密謀を立て、昭襄王35年(紀元前272年)、宣太后は戎王を誘い出して入秦させると甘泉宮に呼び出し、そこで戎王を殺害させた。 秦は直ちに義渠へ兵を送るとこれを滅ぼし、義渠の故地に隴西郡・北地郡・上郡を置き、長城を築いて異民族の侵入を防いだ。
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