異民族の侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
5世紀中ごろ、スラブ民族の侵入が開始され、クトリグール人(ブルガール人の一部族と考えられている)らはコンスタンティノープルまで侵入し、その一部はテルモピレーに至った。ユスティニアス帝はこれを退けたが、その後、モンゴル系のアヴァール人の侵入が開始、580年代には両民族の侵入の規模が拡大し、城壁などが整っていないギリシャ南部の都市は略奪を受けた。そのため、ビザンツ帝国はフランク王国と同盟を結んでこれを排除、アヴァール人との和平には成功してその勢力を退けることができたが、スラブ人は定住を開始していた。さらにフォーカス帝、ヘラクレイオス帝の時代にはギリシャのほぼ全域にスラブ人が侵入を開始した。こうしてギリシャのスラブ化が進むことになった。さらにこれら侵入、定住と共に多くの都市は放棄され、9世紀まで復興することはなく、それまでの「ポリス」は「カストロン」(城砦)と呼ばれるようになった。これは異民族の侵入のためにこれまでの商業都市としての性格を捨て要塞都市と化したことが考えられ、これまで商業都市として活動を見せていたテッサロニキにおいても貨幣鋳造が行われず、商業活動の後退が見られる 。
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