異民族の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 07:51 UTC 版)
八王の乱で中央が乱れると同時に、各地では連年の飢饉にも襲われて大量の流民が現れた。その中でも特に問題だったのは、八王の乱が起こる直前から既に問題を起こしていた氐族や羌族で、特に前者の族長斉万年に至っては296年に西晋に対し反乱を起こす有様だった。当時は八王の乱が起こっていたが、賈氏の下で比較的に中央も安定していた時期に当たったため、乱自体は299年までに鎮定された。ところがこの地域で連年の飢饉により発生した流民を纏め上げた巴は賨そう族の李特が、益州(現在の四川省)に入り成都を占拠し自立した。李特は西晋の討伐を受けて殺されたが、その遺児李雄は勢力を盛り返して304年に成都王に、306年には皇帝を称して大成(成漢)を建国するに至った。 また、并へい州を中心に移住していた匈奴の酋長である劉淵は、八王の乱では成都王司馬穎の旗下にあったが、都督幽州諸軍事王浚・并州刺史司馬騰討伐を目的に許されて帰郷すると、部族を纏め上げて304年に晋朝からの独立を宣言し、左国城(現在の山西省方山県)に拠り大単于となり、漢より賜った劉姓にちなんで漢王(後の前趙)と号した。劉淵は一族の劉聡や劉曜、重臣の王弥や石勒らを各地の郡県に封じ、309年には都を平陽(現在の山西省臨汾県堯都区)に定めた。劉淵は司州(現在の山西省南部)に勢力を伸張し、豫州(現在の河南省)や青州(現在の山東省)など華北各地を席巻し、南下の形勢を示した。劉淵は310年に死去し、一族内紛の末に兄劉和を殺した劉聡が漢皇帝として即位した。
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