蜀軍の中枢へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 21:54 UTC 版)
その後は北伐に従軍し、中監軍・征西将軍に昇進した。234年、諸葛亮の死後は成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍を授けられた。また諸軍を指揮・統率する事を許され、平襄侯に進封された。 238年、諸葛亮の後を継いだ大将軍蔣琬は、魏征伐の準備のため大軍を統率して漢中に駐屯し、姜維もそれに従軍した。その後、姜維は司馬に任命され、一軍を率いて何度も西方に侵入した。240年、羌族の迷当の反乱に呼応して隴西に侵攻したが、郭淮に鎮圧されたため撤退した。243年、蔣琬は北伐を断念して主力軍を漢中から撤退させた。その際、姜維を鎮西大将軍・涼州刺史に任じて北方への備えに残した。247年には、衛将軍・録尚書事と昇進を続け、軍事の中枢を担うようになった。 同年、汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西郡に進出して魏の郭淮・夏侯覇らと戦い、これに勝ちこの地の異民族を味方に付けた。涼州の胡王である白虎文等が民衆を率いて降ってきたため、これを繁県に住まわせた。汶山の平康夷が反したため、姜維はこれを討ち平げた。姜維は還ると、節を假された。249年、姜維は再び西平に出兵したが勝利を得る事なく撤退した。姜維は、西方の風俗に通じている事や自らの才能と武勇を恃みとし、大規模な北伐軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが、蔣琬の後任である大将軍費禕は賛同せず、姜維に1万以上の兵を与えなかった。習鑿歯の『漢晋春秋』によると、費禕は姜維に対し「我々の力は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。その丞相でさえ中原を定める事が出来なかったのだ。ましてや我々に至っては問題外である。今は内政に力を注ぎ、外征は人材の育成を待ってからにすべきだ」と語っていたという。
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