西晋の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)
7月、北地での飢饉が悪化して人々は互いに食い合うまでとなった。劉曜が北地郡太守の麹昌を包囲すると、羌酋軍須は軍糧を麹昌に供給したが、劉雅がこれを破った。麹允は歩騎3万を率いて北地に向かうも。劉曜が破った。劉曜が追撃を掛けると、磻石谷で再び破り、麹允は霊武に撤退し、劉曜は北地を占領した。北地を占領した劉曜は涇陽に進み、渭北の諸城が壊滅した。劉曜は建威将軍魯充・散騎常侍梁緯・少府皇甫陽を捕虜にした。 平陽でも飢饉が悪化し、10人のうち5〜6人が流亡するか餓死した。石勒は石越に騎兵2万を与えて并州に駐屯させ、流民を綏撫させた。これにより20万戸の民が石勒に帰順した。劉聡は黄門侍郎喬詩を派遣して石勒を責めたが、石勒はこれを無視して密かに曹嶷と結んだ。 劉聡が張氏の侍女である樊氏を上皇に立てた。この時、皇后は既に4人おり、皇后の璽綬が与えられた者も7人いた。朝廷の内外の綱紀が緩み、みな他人の顔色を窺い、各所で賄賂が横行し、軍隊が外に活動して国内は飢饉や疫病に悩まされているにも関わらず、後宮への賞賜は1000万に及んだ。劉敷は何度も泣いて諫言したが、劉聡はこれを容れずにかえって怒り「汝は朝夕やって来て人の前で涙を流すが、人を死人のように扱うのか」と言った。劉敷は憂いと憤りのあまり病を発して亡くなった。 河東でも蝗害が大発生し、靳準が部下を率いてこの対処に当たった。蝗を捕えて土に埋めたが、その鳴き声は十里余り遠方まで聞こえ、蝗は再び土中から飛び出して豆を食い荒らした。これにより平陽の飢饉はさらに悪化した。 8月、安定郡太守の焦嵩等が長安救援に向かい、散騎常侍の華輯が京兆を始め4郡の兵を監督して灞上に駐軍したが、漢軍を恐れて前進を止めた。相国の司馬保は胡嵩に兵を与えて長安に向かわせ、霊台で劉曜を破った。しかし、胡嵩は麹允と索綝と対立しており、彼らの威勢が再び盛んになることを恐れ、攻撃を止めて槐里に戻った。劉曜は長安外城を攻め落とし、麹允と索綝は小城に撤退した。長安城は内外が遮断され、食糧が尽き、多数の死者が出た。 9月、劉聡は群臣を招いて光極殿で宴を開き、劉乂に謁見させたが、劉乂が酷くやつれて泣きながら陳謝するところを見て劉聡も涙を流し、酒を勧めて歓を極め、以前通りに遇するようになった。 11月、愍帝は遂に降伏を決意し、侍中の宋敞を遣わして劉曜に書状を送った。愍帝は羊車に乗り、降伏の礼を整えて出降した。愍帝が平陽へやって来ると、劉聡は光禄大夫に任じ、懐安侯に封じた。劉曜に黄鉞を下賜し、大都督・陝西諸軍事・太宰に任じ、秦王に封じた。 劉粲に命じて太廟(劉淵の墓)に報告させ、境内に大赦を施行し、麟嘉と改元した。
※この「西晋の滅亡」の解説は、「劉聡」の解説の一部です。
「西晋の滅亡」を含む「劉聡」の記事については、「劉聡」の概要を参照ください。
西晋の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:37 UTC 版)
265年12月に曹魏から禅譲を受けて建てられた西晋は、280年3月に江南の孫呉を滅ぼして中国を統一した。しかし始祖の武帝(司馬炎)が290年4月に崩御すると、後継者の司馬衷(恵帝)が暗愚なこともあって皇族間で流血の内紛、八王の乱が開始されて西晋は大混乱に陥った。八王の乱末期の304年には匈奴の大首長劉淵により漢(後の前趙)が河北に建てられ、さらに蜀でも成漢が建てられるなど異民族の反乱、いわゆる永嘉の乱が激しさを増した。八王の乱は最終的に、306年11月に東海王司馬越によって恵帝が毒殺され(病死説もあるが、毒殺の可能性も示唆されている)、12月にその異母弟である懐帝司馬熾が第3代皇帝に擁立されることで終焉した。以後、西晋では司馬越が主導して体制の再建が図られ、江南にはその命令で江南軍方面司令官・安東将軍・都督揚州諸軍事に任命された皇族の琅邪王司馬睿が、華北第一の貴族王導と共にわずかな供回りと一部の皇族を連れて赴任した。 孫呉が滅亡した後の江南は、西晋の支配の下でそれぞれの地元豪族が結束しており、八王の乱や永嘉の乱が華北で激しさを増す中で比較的平穏だったことから、戦火を避けて難民が移動する避難地域と化していた。司馬睿赴任の前には西晋の下級官吏の陳敏が自立の気配を見せたが、江南の豪族は協力を拒否して寿春にいた西晋軍と呼応して307年に陳敏を討ち、西晋に服従して社会の安定に努めていた。 司馬越は漢(前趙)・成漢などの異民族国家や叛徒の討伐、西晋の体制再建に尽力したが、一方で自らに独裁権を集中するために偽詔を発して自ら丞相を称し、さらに懐帝の側近や親族を粛清したりしたため、次第に懐帝と司馬越の対立が表面化した。311年1月になると両者の対立は頂点に達し、司馬越は洛陽から項城に移って対峙したが、懐帝は3月になると諸国の方鎮に司馬越討伐の勅命を発した。この中で、司馬越は憂憤のうちに病死した。司馬越の死により、八王の乱後に辛うじて政権を保っていた西晋は大混乱に陥る一方で、漢はこの好機を見逃さず、4月に漢の武将石勒は旧司馬越配下の10万の将士を攻め、これを破って王衍ら10万人を捕殺した。これにより西晋軍の主力は完全に崩壊し、前年に劉淵が崩御した後に紆余曲折を経て即位していた子の新帝劉聡は、311年6月に一族の劉曜、武将の王弥・石勒に命じて大挙洛陽を攻め、略奪暴行の限りを尽くさせた(永嘉の乱)。 この永嘉の乱により、洛陽は破壊され何万人もが殺害され、懐帝は玉璽と共に前趙の都平陽に拉致され、恵帝の皇后羊氏に至っては劉曜の妻とされた。懐帝は生かされたものの、劉聡により奴僕の服装をさせられ、酒宴で酒を注ぐ役や杯洗い、劉聡外出の際には日除けの傘の持ち役にされたりという屈辱を与えられ、人々からは晋皇帝のなれの果てと嘲り笑われて、屈辱を嘗めつくした後の313年1月に処刑された 。こうして西晋は事実上滅亡した。 懐帝が処刑されたことにより、長安にいた懐帝の甥の司馬鄴(愍帝)は313年4月に即位して漢に抵抗した。しかし長安も漢の劉曜により攻撃され、晋軍は抵抗するが連敗した。またこの愍帝の政権は、華北に残存していた西晋の残党により建てられた極めて脆弱な政権で、支配力は長安周辺にしか及ばない関中地域政権でしかなく、その長安は八王の乱で既に荒廃していたために統治力も無く、さらに西晋の諸王も援軍に現れなかったため、316年に長安が陥落して洛陽と同じく略奪殺戮の巷となり、愍帝は漢に降伏し、平陽に拉致された。こうして西晋は完全に滅亡した。愍帝は生かされたが、懐帝同様の扱いを受けた後、317年12月に漢の劉聡により殺された。これにより、司馬炎の系譜であった西晋の皇統は断絶した。
※この「西晋の滅亡」の解説は、「東晋」の解説の一部です。
「西晋の滅亡」を含む「東晋」の記事については、「東晋」の概要を参照ください。
- 西晋の滅亡のページへのリンク