研究と評価
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これらの銘は清代の考証学が発達し篆書の研究も行われるようになってから注目されるようになった。秦の同時代資料ではないが、比較的時代の近い後漢の碑という点で貴重視されている。ただし、摩滅の激しさから学書に用いられることは少ない。
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研究と評価
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この碑は既に北宋代から知られており、多くの拓本集に収録されていた。しかし、一般的に知られるようになったのは清代に考証学が発達し、金石学の研究が始まってからである。 研究での争点は、同碑の書体に関することに集中している。この時期は隷書から楷書への移り変わりがあった時期であったが、相次ぐ戦乱のために書蹟の残存が極めて悪く、移行の経緯がほとんど不明な状態であった。このため、同時代の碑はすべて一度は「移行期を反映する碑」としての研究の洗礼を受けることになったのである。 この碑もやはり隷書と楷書の中間的書体であることから、一旦は「過渡期の碑」という見方になった。その中で隷書寄りであるか楷書寄りであるかも争点となり、「漢代からそれほど遠くない時代なので隷書寄りである」「隷書にしては楷書のにおいが強いので楷書寄りである」と綱引き状態になった。 後に「過渡期の碑」とする見方は同時代の楷書の書蹟が大量に発見され、この時期既に楷書が成立していたことが証明されたことから「字体こそ中間的だが過渡期を反映したものではない」という結論になった。しかしそれでも隷書寄りか楷書寄りかの問題は残されてしまい、今も決着をみていない。
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研究と評価
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この碑は清代の乾隆年間(1736年 - 1795年)に建碑地である元氏の県庁に近い野原で発見されたという。 当時は考証学が発達し篆書の研究も行われていたため、同碑は書体面から注目されることになった。当初は篆書から隷書への移り変わりを反映したものとされたが、その後発見された前漢代の木簡などの研究から否定された。現在では隷書を書き慣れている人が、普段なじみのない篆書を書いた結果、自然に隷書の癖が筆法に反映されたか、あるいはわざとアレンジを加えたかのどちらかであると見られている。 隷書の筆法が混じっているため、篆書の書蹟としてはいささか崩れた碑ではあるが、比較的秦と時代の近い後漢の碑という点で貴重視され、篆書の名家として知られる鄧石如なども臨書している。
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研究と評価
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この銘は北宋代に知られていたが、その後忘れられて清代に再び注目を浴びるに至った。しかし書風が他の六朝楷書と違うためか、評価は賛否両論となり、「超逸愛すべし」と絶賛する意見がある一方、「後世のよろしく学ぶべきところには非ず」とあまり好意的でない意見もある。しかし好意的であるか否かにかかわらず、「鑑賞して楽しむ書であっていきなり初学者が学ぶ書ではない」という点では見解が一致している。
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研究と評価
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清代初期における北朝の墓碑・墓誌の大量出土は、それまで完全に忘れ去られていた北朝の「六朝楷書」の存在を知らしめ、そのレベルの高さに多くの研究者・書家が驚嘆し、六朝楷書の研究が急速に進んだ。 その中で出土した「高貞碑」は、その暢達と緊密を両立させた見事な書風から六朝楷書の書蹟中の白眉とされることになり、拓本が採られるとともに多くの書家によって臨書が行われるようになった。 日本には明治13年(1880年)に楊守敬が来朝した際に拓本がもたらされた。これによりそれまで六朝楷書にほとんどなじみのなかった日本の書道界に大きな衝撃が走り、日下部鳴鶴・巖谷一六など多くの書家が高貞碑の書風に学んで自身の書を打ち立てていった。
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研究と評価
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嘉量は標準器としては極めて優秀であったため、新の滅亡後も保管され、西晋代の泰始10年(274年)に朝廷内で嘉量を測定した記録が残っている。しかしその後朝廷の手を離れ、東晋代の太元4年(379年)にそれとおぼしき枡が市に出ていたという記録を最後に一時その姿をくらました。 その後千数百年にわたって行方不明となっていたが、清の乾隆年間(1736-1795年)に朝廷の倉庫内で再発見されて再び陽の目を見ることになり、乾隆9年(1744年)には嘉量を参考にした2つの枡が鋳造された。 清朝滅亡後、嘉量は紫禁城内のかまどの上に放置されてほこりにまみれるままになっていたが、民国13年(1924年)に宣統帝ら旧皇族が追放されると中華民国政府に接収された。 これによりこれまで朝廷の秘宝であった嘉量が民間の研究に供される機会を得ることとなり、研究者たちはその精密さに驚くとともに精力的に研究を行い、多くの論文が発表されるに至った。 その後戦争による避難を経て一時首都・南京へ戻ったものの、中華民国政府が中国大陸を追われるのとともに民国37年(1948年)に台湾へ移されることになり、現在は台湾の国立故宮博物院に収められ展示されている。
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研究と評価
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 08:47 UTC 版)
上述の通り始皇七刻石自体はかなり古くから知られていた。唐代には篆書による書道を再興させた書家である李陽冰が直に刻石から篆書を学んだことが伝えられているほか、北宋代の書蹟集にも収録されている。しかし、本格的な研究は清代の考証学発生後のこととなる。 同刻石は篆書の数少ない同時代資料であり、また篆書制定に関わった李斯が直筆で正式な書体によって書いていると見られるなど第一級資料であることから貴重視され、多くの研究が行われている。しかし上述した通り、既に清代の時点で残されているのが泰山刻石と瑯琊台刻石だけであった上、前者は字数が非常に少なく、後者は保存状態が劣悪であるために、書としては単独研究が難しく、「権量銘」など他の同時代資料や後漢代の篆書を中心とした字書『説文解字』などを参考にしながら研究を行うしかないのが現状である。 なお泰山刻石の拓本は上述の通り4種が伝わるが、五十三字本、百六十五字本については模刻した刻石から取ったものとする説があり、結論を見ていない。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 08:47 UTC 版)
この碑は中華民国代、民国12年(1923年)に河南省偃師県の辛家村というところから発見された、極めて発見の新しい碑である。なお7年後には同じ場所から父親の袁安碑も出土している。 このためこの碑は袁安碑と組で論じられることが多く、やはり研究の焦点となったのはこの碑の刻された時期であった。当初は後漢代の刻と考えられたが、墓碑として異例尽くしであるため異論も出ており、三国時代に父親のものと組で建てられたという説や、完全な偽作であるという説などがある。このためそこでつまずいてしまい、あまり研究が進んでいないのが実情である。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 08:39 UTC 版)
この碑は中華民国代、民国19年(1930年)に河南省偃師県の辛家村というところから発見された、非常に発見の新しい碑である。なお同じ村から子の墓碑である袁敞碑がその7年前に出土している。 研究の焦点となったのはこの碑の刻された時期である。当初は素直に後漢代の刻と考えられたが、先ほどのように墓碑としては異例尽くしの碑であるため異論も出ている。袁安が『三国志』で有名な武将・袁紹や袁術の先祖であることから、三国時代に彼をしのんで建てた碑という説や、まったくの偽作であるという説などがある。このためにあまり研究が進んでいないのが実情である。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:48 UTC 版)
権量銘は早く隋代の開皇2(582)年に出土したが、本格的に研究が始まったのは清代になって考証学が発展し、篆書を含む古代文字の研究が盛んになってからである。 権量銘の書体は小篆ではあるが、制定に関わった李斯本人の筆といわれる始皇七刻石と違って文字がいくぶん崩れており、正確に小篆の姿を伝えているとは言いがたい。また同じ文を2回刻するなどミスのある権量も発見されている。 しかし小篆の同時代の書蹟は極めて少ないため、多少の崩れを理解した上で、後漢代の小篆を中心とした漢字字典『説文解字』など後世資料を併用しながら研究に用いられている。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/29 03:45 UTC 版)
隋の統一以降、南北の壁がなくなり双方の文化は2代煬帝の頃までにはほぼ完全に融合した。しかし異民族の手になる北碑と比べ、漢民族、それも「書聖」とうたわれた王羲之の流れをくむ南帖の方が前代からの書蹟として優先され受け継がれた。その後、唐代においては王羲之の書法がもてはやされ、積極的に研究された。 しかし南帖自体はその多くが早くに失われ、真筆か模刻か不分明なまま北宋代の書蹟集『淳化閣帖』などいくつかの書蹟集に収録されているという不安定な形で伝承され、評価も同時代に記された書論類を参考にしなければならない状態であった。 さらに清代、考証学の発展により文字研究・考古学研究の機運が高まる中、18世紀初頭頃から続々と北碑が出土し始めた。阮元が「南北書派論」「北碑南帖論」によって南北朝時代の書は南北で単独発展したことを述べ、さらに模刻に模刻を重ねてどこまで本物か否か分からない南帖よりも、金石に固定され最初の姿を長く留めている北碑の方が価値があると断じた。これに続いて包世臣ら当時の学者が次々と北碑を絶賛、清末の康有為も「南北で単独発展」という説には異論を唱えたものの北碑の価値は高く評価したため、書道界の主流は完全に北碑側へ向いた。 また書蹟集に収められた南帖の書蹟にも偽物が多いことが判明し、ただでさえ書蹟が少ない上に真贋が曖昧な状態で伝承されていた南帖全体の信用性は大きく揺らいだ。これも実証的分析を旨とする考証学者による批判材料となり、南帖の権威は完全に失墜した。 現在南帖は、信用できる書蹟や資料があまりに少ないため、積極的に研究されることは少ない。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:14 UTC 版)
これらの造像記は異民族の産物ということもあり、長いこと顧みられることがなかった。しかし清代の考証学発展により「六朝楷書」の研究が進み、さまざまな書蹟が発見されると俄然脚光を浴びるようになり、そのレベルの高さに多くの研究者が驚嘆した。 日本にはやはり明治13年(1880年)に楊守敬によって高貞碑など他の六朝楷書の碑とともにもたらされ、書道界に大きな影響を与えることになった。 現在では墓碑銘・墓誌銘と並んで「六朝楷書」の代表格とされており、学書者に愛用される書蹟となっている。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:58 UTC 版)
「陸奥海道の蝦夷の反乱」の記事における「研究と評価」の解説
海道の蝦夷反乱について樋口知志は、大崎平野の蝦夷反乱とは発生のメカニズムがやや異なり、海道地方に住む蝦夷集団と律令国家側勢力との間の交易上のトラブルに端を発したのではないか、また律令国家は朝貢に訪れる蝦夷族長への禄の支給体制を整えていたが海道蝦夷たちの不満を抑えるには至らなかったのではないかとしている。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 16:08 UTC 版)
「デビッド・ロイド・ジョージ」の記事における「研究と評価」の解説
ロイド・ジョージの研究は三期に分けることができる。最初は第一次世界大戦終結までであり、この頃には「貧乏人から首相にまで上り詰めた男」として徹底的に美化されていた。ハーバート・デュ・パルク(Herbert Du Parcq)の伝記、フランク・ディルノット(英語版)の著作がその典型である。 しかし一次大戦後に一転して偏見に彩られた批判的な著作が急増した。1930年のチャールズ・マレット(英語版)の著作、1939年のワトキン・デイヴィス(Watkin Davies)の伝記、長男リチャード(父と折り合いが悪かった)の著作、マコーミック(D.McCormick)の研究などがその典型である。今日の研究ではこの時期に広められた批判的評価の多くが事実に基づかない偏見であることが明らかになっている。偏見が広まったのはアスキス派がロイド・ジョージの悪口を広めていたこと、ロイド・ジョージの金銭面や女性面での俗説が出回っていたことが原因と考えられる。 しかし1960年代から再評価が始まった。当時の政府文書の大部分やロイド・ジョージの個人文書の一部が公開されたことで彼のことをより深く研究できるようになったためである。これらの資料を前提とした新研究により従来の悪評が偏見だったことが明らかになってきたのである。特に大きかったのはこれまでロイド・ジョージは宮廷陰謀を企んでアスキスを失脚させて取って代わったと考えられていたのが、実際にはロイド・ジョージはアスキスを首相のままにして、そのうえで能率的な戦争遂行体制を作ろうと努力していたのにむしろアスキスがそれを拒否したという事実が判明したことだった。また貴族称号の売買など金銭面の貪欲さについても、そうやって集めたお金の多くをロイド・ジョージは自由党の選挙資金、あるいは彼の政策研究のために使用しており、彼の私生活自体は極めて質素だったことから、私利私欲でやっていたわけではないと擁護されるようになった。 彼は多面的な政治家であり、統一した理解が難しいといわれる。たとえばボーア戦争の時は完全平和主義者のように見えるが、チャナク危機ではむしろ好戦的に見える。大蔵大臣の時は民主主義のリーダーのようだったが、首相になると独裁者のように見えることなどである。したがって一言で規定することは困難な政治家であり、ロバート・スカリー(Robert J. Scally)は「社会帝国主義」、ケネス・モーガン(英語版)は「農村急進派」、ジョージ・ダンガースフィールド(英語版)は「卓越したデマゴーグ」、ステファン・コス(英語版)は「プラグマティズム」など歴史家ごとに各人バラバラに定義している。 [先頭へ戻る]
※この「研究と評価」の解説は、「デビッド・ロイド・ジョージ」の解説の一部です。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 13:40 UTC 版)
樋口知志は、2013年刊行の著書『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』の中で、古代の蝦夷については蝦夷=アイヌ説に立脚した論調が散見され、古代日本人の外側に位置した異族的集団であったように捉えられることも少なくない。しかし現在では学会の共有財産となる標準的な見解が成立しており、蝦夷の中には渡嶋(北海道)の蝦夷など極めて僻遠の地の集団も含まれるが、本州内に居住していた蝦夷については現代日本人の祖先のうちの一群であった。奈良時代から平安時代初期には奥羽両国の蝦夷が関東から九州まで全国に移住させられたことがあり、各地に血統を伝えている。現代日本人の身体の中には大概、征服者と被征服者の双方の血がともに流れていることになる。東北人だけが蝦夷の後裔として敗れし者の血を承け継いでいるわけではないとしている。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/29 03:45 UTC 版)
隋の天下統一により南北の文化交流が自由となり、ほぼ煬帝の頃までには融合していた。 北碑で確立された六朝楷書の書法や書風も、その流れに乗って現在知られる楷書の成立に一役買った。しかし北碑そのものは異民族王朝やそこに仕えていた人々の造ったものであったため、中華思想の観点から価値のないものとして長きにわたり忘れ去られた。 その後清代に至り、考証学の発展により漢字研究の機運が高まる中、18世紀初頭頃から続々と北碑が出土し始め、そのレベルの高さと独特の書風に驚いた学者たちの注目が集まった。 阮元は「南北書派論」「北碑南帖論」として南北朝時代の書は南朝・北朝それぞれで単独発展したことを論じ、さらに模刻の連続でどこまでが本物か分からなくなってしまっている南帖よりも、金石に固定されてその当初の姿をよく留めている北碑を価値のあるものと断じた。この論を包世臣など当時の学者たちが絶賛したことによって北碑の地位は確固たるものとなり、学界の主流も北碑側に向いた。清末の康有為は阮元の理論を「完全に南北に書が分かれるわけではなく互いに影響があった」と修正する一方、やはり北碑の書蹟としての優秀性を認め、現在では書法研究や書道史研究、そして楷書の学書を行う上で、北碑は欠くべからざるものとして認識されている。 日本ではほとんど知られることはなかったが、明治13年(1880年)に清国公使の随員として来日した考証学者・楊守敬が、本国で散逸した文献類を買い集める資金を調達するために北碑の拓本を持参したことで伝来した。これを見た日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六は大きな衝撃を受け、以後の日本書道界に大きな影響を与えた。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 08:47 UTC 版)
嘉量銘はあくまで権量銘の模倣品であったが、嘉量自体は極めて優秀な標準器であったことから新の滅亡後も参考資料として保管され、実際に西晋代の泰始10年(274年)に朝廷内でこの嘉量を測定した記録が残っている。しかしその後流出したようで、東晋代の太元4年(379年)にそれらしい金属の枡が市で売られていたという記録を最後に行方不明となった。これにより一時その現存までも疑われたが、清の乾隆年間(1736年 - 1795年)に朝廷の倉庫内で再発見されている。 篆書による書蹟ではあるものの、嘉量本体込みで歴史的史料として評価されている面が強く、書としてはあまり評価されていない。このため研究は古代史や計量史など歴史の分野で行われ、書としての研究はほとんどない。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:12 UTC 版)
この石経は「熹平石経」ともども西晋の永嘉年間(307年-313年)に破壊され、以来行方が分からなくなっていたが、清代末から中華民国初期にかけて続々と出土し、考証学の研究に供されることになった。 研究は上述した通り書としての個性が薄いため、主に漢字研究、特に古文研究に用いられた。文字としての古文は長いこと『説文解字』に参考として収録された文字くらいしか史料がなく、詳細に不明な点が多かったため、貴重な追加史料として歓迎されたのである。このため現在でも書蹟として扱われるよりは、古文研究の史料として扱われるのが普通である。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:31 UTC 版)
碑そのものは北宋代に発見されたが、その時既に3つに割れ左右がかなり摩耗した状態であった。いわゆる「断碑」であるが、3つで1つの碑であるということすら当初は分からず、それぞれの石ごとに解読が行われていた。そのため明代に周在浚がこれを断碑と見抜き、つなげて1つの碑として読むまで500年近くも「解読不能」とされていた。 しかし解読後は、貴重な三国時代の書蹟とあって多くの研究が行われ、清代に篆書研究が盛んになるとその参考資料として用いられた。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:14 UTC 版)
一般的にこの碑が「発見」されたのは清の道光3年(1823年)、考証学者・阮元によるものとされている。彼はこれを「雲南最古の碑」としてほめたたえ、銘文まで彫りつけているが、実際には過去の研究書に既に拓本があり、また同じく雲南で出土した「爨宝子碑」は義熙元年(405年)の刻なので、これは間違いである。しかし彼がこの碑の存在を天下に広く知らしめたのは確かである。 研究での争点は、同碑の書体に関することに集中している。そもそもこの時期は隷書から楷書への移り変わりがあった時期であったものの、三国時代の戦乱や西晋の滅亡などの混乱によって書道や碑の系譜が絶え絶えになり、どのようにして移行したのかがほとんど不明な状態であった。 このためちょうどその時期に刻された同碑は注目の的となり、多くの学者がこれを「隷書から楷書への移り変わりを反映した碑であり、そこに地方色が入ったもの」と考えた。特に康有為は「隷楷の極則」とまで讃美している。 しかし実際には、当時既に楷書は成立していたということが後世発見された碑などから証明されており、現在では「隷書と楷書の過渡的書体ではあるが、この碑自体は過渡期を反映したものではない」と上述の説を半分否定する形で決着がついている。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:33 UTC 版)
この墓誌は、清代の書家である何紹基が、道光5年(1825年)に歴城(現在の山東省済南市)の蚤の市で拓本を偶然発見したものである。これ以降拓本が出ることは一切なく、何紹基旧蔵本以外に拓本が存在しないいわゆる「孤本」である。現在一部で出回っている拓本は全て模刻されたものである。 何紹基が絶賛したことで有名となり、その独特な書風もあって数ある墓誌の中でも一定の知名度を持っている。 日本では日下部鳴鶴らが北朝碑文の習得過程で学んでいる。
※この「研究と評価」の解説は、「張黒女墓誌」の解説の一部です。
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研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:13 UTC 版)
この碑が出土したのは清の乾隆43年(1778年)のことであるが、その詳しい出土地や状況は分かっていない。世に知られるようになったのはさらに70年以上も後の咸豊2年(1853年)で、本格的な研究が始まったのはこれ以降である。 研究では異体字の研究と書体に眼が向いた。なかんずく書体は隷書と楷書の中間のような書体であることから注目を浴びた。この時期は隷書から楷書への移り変わりがあった時期であったものの、三国時代や西晋代の混乱で書道の流れが追いづらく、その移行については不明であった。このためちょうどその時期に刻され、まるでしつらえたように中間書体を持つ同碑は「隷書から楷書への移行の兆しを表すもの」と多くの学者がとらえるに至った。 しかし後世発見された碑から、この当時既に楷書は成立していたということが証明され、現在では「隷書から楷書への変遷の兆しを示す書体のようではあるが、この碑自体は過渡期を反映してはいない」と上述の説を半ば否定する見解で落ち着いている。
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