後世から見た研究と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 00:06 UTC 版)
「五代十国時代」の記事における「後世から見た研究と評価」の解説
五代十国時代に関しては、北宋成立直後に薛居正らが正史である『五代史』が編纂されたが、後に欧陽脩が春秋の筆法の影響を強く受けた『五代史記』を著した。これが欧陽脩の没後に国子監に納められて認められて大いに広まったことから、金では1207年に『五代史記』のみを正式な正史として扱うこととした。『五代史』は南宋では引き続き正史であったものの、実際にはほとんど顧みられなくなり、遂には散逸してしまうほどであった。清の時代に『五代史記』は正史に加えられて『新五代史』と改められ、散逸後に『永楽大典』など様々な文献を元に復元された『五代史』は『旧五代史』と呼ばれるようになった。 欧陽脩はこの時代を唐の衰退によって天下は分離し、戦争や飢饉が人々を苦しめ、秩序が乱れた時代であると解した。すなわち、政治の失敗による秩序の崩壊(「乱」)と天下が分裂した状態(「離」)が表裏一体となって展開された「乱離」の時代であったというのである。この考えは司馬光の『資治通鑑』によって継承され、後世の歴史観へとつながった。明の遺臣である王夫之は、五代の王朝をたまたま唐の京邑(洛陽・長安)を支配した勢力に過ぎない(『読通鑑論』)とし、王朝として認めること自体を否定しているが、基本的には宋代の歴史観に沿っている。 欧陽脩や司馬光らによる宋代の歴史観は、天下に複数の国家が存在することを認めず、その時代そのものを秩序のない時代として否定的に捉える一方で、統一された天下のみが正しい世界でありそれを実現した宋王朝を評価するという、「中国」における天下の概念に強く影響されている。例えば、「十国」という地方政権の数え方も、北宋成立直後に成立した『旧五代史』では確認できず(現行の『旧五代史』は完本ではないが、少なくとも「十国世家」のような世家は立てておらず、岐などを「十国」以外の群雄とともに「世襲列伝」・「僭偽列伝」に分散して所収していることから、「十国」という規定がなかったと推測される)、欧陽脩より少し前の人物である路振が編纂した諸国に関する歴史書も北楚(荊南)を除いた『九国志』だった。荊南を加えた「十国」の初出もやはり『五代史記』であり、その後朝廷に献上された『九国志』も北楚の分が追記されている。南平王・荊南節度使の高季興およびその子孫は世襲を行い、宋の軍事力によって統一され、統一後は他の諸国の王と同様の待遇を得ているものの、実態としては中央政府も刺史任命権も持たない五代の節度使でしかなかった。だが、こうした曖昧な存在を無秩序の象徴として嫌った欧陽脩は北楚(荊南)を数え上げて「十国」にしたと言われている。こうした一連の歴史観は日本におけるこの時代への見方にも少なからぬ影響を与えている。 唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(「唐宋変革」)。五代十国時代はこうした変革の中の過渡期と位置づけられて、こうした観点から研究が行われることが多い。 小島毅や與那覇潤は、五代十国時代が北宋によって統一されず、中国が分裂したままだったとしたら、ヨーロッパと同様に複数の国家が誕生していたかもしれず、北宋以降の専制皇帝のような中国全土を統一する世俗権力がつくられずに、分裂した中国各地の王権や軍閥がミニ国家をつくって、やがてヨーロッパのヴェストファーレン体制に近い国際関係が生まれた可能性があり、そこが、東西の歴史の最大の分岐点だったのではないかと指摘している。
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