後世での歴史的見直し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:14 UTC 版)
1977年、胡耀邦が党中央党校副校長に任命され、党校の業務を握ると、冤罪事件の名誉回復が開始された。1978年4月には「反右派闘争自身に誤りはなかったが、問題は拡大化した事だ」として、誤って右派認定された人に対し正当な待遇をするよう指示した。9月には政治的な名誉回復や、剥奪された党籍の回復などが図られ、1980年5月までに右派の名誉回復は完了した。しかし、章伯鈞、羅隆基、彭文応、儲安平、陳仁炳と91人は名誉回復がなされないでいる。 1981年、第11期六中全会の「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」では、 整風の過程で、極少数のブルジョア階級右派分子が機に乗じていわゆる「大鳴大放」を鼓吹し、党と新生社会主義制度に対して攻撃を仕掛け、共産党の指導に取って代わろうと企図した。この種の攻撃に対する断固とした反撃は完全に正確で必要なものだったが、反右派闘争はひどく拡大化し、知識分子や愛国者、党内の幹部を誤って右派分子とし、不幸な結果を作り出した。 と結論付けるにとどまった。 後に第5代総理となった朱鎔基は、当時国家計画委員会の座談会で国家計画委員会と地方計画委員会の官僚主義を批判したため、1958年4月に右派分子の烙印を押され、党籍を剥奪された。1962年に「赦免」されたものの右派のまま名誉回復はなされず、文化大革命で再度批判され五七幹部学校へ労働改造に送り込まれている。名誉回復と党籍回復は他の幹部と同じく1978年まで待たなくてはならなかった。
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