後世における『集史』の影響
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『集史』は、完成後にモンゴル帝国各地の諸王家へ贈与されたことが記録されており、アラビア語版も同時に作られ、マムルーク朝でもそれらが読まれた。ラシードゥッディーンはオルジェイトゥ治世中に『ラシード著作全集』を著し、自らのワクフによる施設で毎年写本を一部ずつ完成させるよう指示をしていた。この中には『集史』とそのアラビア語版も含まれており、両種類の写本群が現存している。このため後のティムール朝時代にもシャー・ルフによる修史事業でも写本が再編集され、またオスマン朝やサファヴィー朝、ムガル朝でも読まれ各種の写本が作成され続けた。 近代の歴史学でも、1700年代初頭から東洋学の基本文献のひとつとして位置付けられ、19世紀から研究がされており、19世紀のうちにすでに各国語訳が現れている。清人の洪鈞はロシア語訳『集史』を参照して『元史』との考証を行い、『元史訳文証補』を書いた。柯劭忞もこれを参照している。大元朝についてもクビライ・カアン紀やテムル・カアン紀の記述(一部、各国史の「中国史」も)には『元史』にない情報が見られ、現在、大元朝研究の有力な資料のひとつとして使用されている。 しかし、『集史』の写本は上述のように1307年献呈『ガザンの祝福されたる歴史』、1307年献呈『集史』、1314年献呈『集史』というように3段階に増訂されており、それぞれに写本が流布している。さらにティムール朝修訂本や、オスマン朝アラビア語版も別系統の写本群をなしている。『集史』の研究にあたっては、これら諸テクストを校訂することが必須となるが、多系統の写本から原テクストを復元することは容易ではなく、それ以前に下項に示すとおり写本はユーラシア大陸全土に砂をばらまいたように分散して保存されているため、閲覧対照作業自体が困難を極める。また、ペルシア語版のみならず、アラビア語版やウズベク語版の対照も必要となる。さらに、テュルク諸語をはじめとするユーラシア各地の言語の固有名詞・語彙が多数使用されているため、これらの考証も必要となる。 このため『世界征服者の歴史』とならんで13世紀以降の中央ユーラシア史の最重要史料でありながら、いまだにまともな校訂すらなされていない。
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