ティムール朝時代
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「グルジアのイスラム教」の記事における「ティムール朝時代」の解説
1386年から1404年にかけてグルジアは、中央アジアからアナトリアにまで最大版図が及んだトルコ系モンゴル人の征服者・ティムールが率いる軍隊により侵略を受ける(ティムールの征服戦争)。 少なくとも7度あった侵略のうち最初の侵略では、ティムールが首都トビリシを奪取し、1386年にバグラート5世を捕虜にした。1401年末にはコーカサスに再度侵攻。グルジア王は和平を求め、兄弟を貢物と共に遣わせることとなる。ティムールは当時オスマン帝国との戦争(アンカラの戦い)に備えていたため、グルジアでの戦況はいったん棚上げして、オスマン帝国との戦争終結後により断固たる徹底した対処を行うことを考えていたと思われる。かくしてグルジア王が軍隊を提供するという条件の下、グルジアと和平協定を結んだ。
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ティムール朝時代
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「マー・ワラー・アンナフル」の記事における「ティムール朝時代」の解説
マー・ワラー・アンナフルで生まれ育ったティムールはこの地を本拠地とし、サマルカンドや自分の故郷であるケシュ(シャフリサブズ)を都とした。マー・ワラー・アンナフルを中心に権力を拡大するにつれて、イランやアフガニスタン、インド、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の諸勢力が抗争を繰り返すキプチャク草原へも遠征した。一方で、ティムールはヤシ(テュルキスタン)のホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟など、巨大なモスクやマドラサ、宮殿、庭園、中央アジア各地の聖者廟や自らを含むティムール一門の廟墓など、現在にも残る巨大な建造物群の建設・増築を各地で進めた。モンゴルでありかつムスリムであるといういわゆる「チャガタイ人」と言う意識が、マー・ワラー・アンナフルのチャガタイ・ウルス系のアミール層に形成され、ティムール朝時代には『集史』再編纂やチャガタイ王侯貴族の間にもペルシア語文芸の愛好のみならず、自らの母語であるチャガタイ・トルコ語の文芸運動などの文化活動も新たに盛んになった。 ティムール死後の後継者争いを制して王位に就いたシャー・ルフはマー・ワラー・アンナフルの統治を長子のウルグ・ベクに委任し、自身は即位前からの領地であるホラーサーン地方のヘラートを本拠地とした。ウルグ・ベクはヘラートの宮廷からの干渉をほとんど受けることは無く自由に政務を執り、内政・外政・学芸の保護に尽力する。1420年にサマルカンドに天文台が建設され、ウルグ・ベク時代のサマルカンドはイスラーム法に基づく厳格な統治が敷かれていたヘラートとは対照的に、ティムールの時代と同じように自由な空気が流れていた。シャー・ルフの死後の王位を巡る混乱でティムール朝の領土は分裂し、アブー・サイードの子孫が支配するマー・ワラー・アンナフルの政権とフサイン・バイカラが支配するホラーサーンの政権が並立する。アブー・サイード政権のマー・ワラー・アンナフルではスーフィー(イスラームの聖者)のホージャ・アフラールが指導するナクシュバンディー教団が強い影響力を持ち、ホージャ・アフラールの後継者は強大な政治力と経済力を相続した。
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