ティムール朝遣明使節の記録
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「メンリ・テムル」の記事における「ティムール朝遣明使節の記録」の解説
1419年、ティムール朝君主シャー・ルフは明朝へと使者を派遣し、この一行に参加していたギヤースッディーン・ナッカーシュは明朝(ヒタイ)への記録を日誌として書き記した。 ラジャブ月21日(新暦1420年8月1日)、一行はコムル(ハミル)の町に着いた……メンリ・テムル・バイリ(Manglī tīmūr bāīrī)という大変美しい若者がコムルを取り仕切っていた。 — ギヤースッディーン・ナッカーシュ『ヒタイ遣使記』 この記録に登場するメンリ・テムル・バイリこそが、明朝の記録する「忠義王免力帖木児」に相当する人物であると見られている。
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